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蛇足伝  作者: 大田牛二
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前漢物語 文帝期その一

 紀元前179年


 正式に即位した漢の文帝ぶんていは車騎将軍・薄昭はくしょうに母・薄姫はくきを代から向かいれた後、新たな人事を発表した。


 琅邪王・劉沢りゅうたくを燕王に遷し、趙幽王・劉友りゅうゆうの子・劉遂りゅうすいを趙王に立てた。


 次に陳平ちんぺいを左丞相に遷して太尉・周勃しゅうぼつを右丞相に任命・大将軍・灌嬰かいえいを太尉にした。


 そして、呂氏が奪った斉・楚の故地は全て元に戻し、呂氏誅滅の功を論じ、右丞相・周勃以下の功臣に益封した。


 陳平が左丞相になったのは彼自信が願ってのことである。


 文帝は呂氏誅滅の功を論じ、右丞相・周勃以下の功臣が所有する戸数を増やして金を下賜していったが、その数量にはそれぞれ違いがあった。


 周勃は朝議が終わって趨出(小走りで退出すること。皇帝等の高貴な人の前では小走りで移動するのが礼で)する時、とても得意になっていた。逆に文帝は恭しい態度で周勃を礼遇しており、いつも周勃を目で送り出していた。


 その様子を見て、諌めた男がいる安陵の人で郎中の袁盎えんおうである。


「諸呂が悖逆(謀反)したため、大臣は協力して誅滅しました。当時、丞相(周勃)は太尉として元々兵柄(兵権)を握っていたため、機会に恵まれて成功したのです。周勃の功績は当然のことであって、特別視する必要はないのです。今、丞相には主に対して驕っている様子が見られ、逆に陛下は丞相に対して謙讓しています。臣主が共に礼を失っていますが、陛下がこのようにするのは相応しくないと考えます」


 この後、文帝は朝会において徐々に威厳を持つようになり、丞相・周勃は文帝を畏敬するようになった。


 袁盎は段々と漢王朝で重責を担っていく人になる。


 文帝が詔を発した。


「法とは治世の正(規律。根拠)である。法を用いて暴を禁じることにより、人を善に導くのである。しかし今は、法を犯した者を既に裁いてからも、罪のない父母、妻子、同産(兄弟姉妹)を連座させ、妻子を没収して官府の奴婢にしている。私はこのような法を採るべきではないと考えている。これについて議論せよ」


 すると有司(官員)が皆、言った。


「民は己を治めることができないため、法を制定して禁じるのです。相坐坐收(連座没収)によって民の心を縛り、犯法を重視させているのです。このような方法は遠い昔から継承されていることですので、今まで通りにすれば便があります」


 しかし、文帝は首を振った。


「私は法が正(公正)であれば民が愨(誠実)になり、罪(刑)が当(適切)であれば民が従うものだと聞いている。そもそも牧民(民を管理すること)して善に導くのが吏(官吏)なのである。民を導くことができず、しかも不正の法で裁いていれば、逆に民を害して暴を為させることになる。そうなってしまえば、どうやって禁じられるのか。私にはその便が見えないから、熟計(熟慮)せよ」


 有司がそろって答えた。


「陛下は大恵を加えられ、徳が甚だしく盛んです。我らの及ぶところではありません。詔書を奉じて收帑(妻子を奴婢にすること。「収孥」とも書く)や相坐(連座)に関する諸律令を廃止することを請います」


 こうして收帑・相坐の律令が廃止された。


 正月、有司(官員)が文帝に早く太子を立てるように請うた。宗廟を尊崇するためである。


「私は不徳であるため、上帝神明はまだ歆享(歆饗。祭祀を享受すること)せず、天下の人民もまだ嗛志(㥦志。満足)していない。今、天下から広く賢聖有徳の人を求めて天下を譲ることができずにいるのに、予め太子を立てるなどと言ってしまえば、私の不徳を重ねることになってしまう。どう天下に説明するのか。このことは暫く置いておけ」


 しかしながら有司は、


「予め太子を立てるのは、宗廟・社稷を重んじて天下を忘れないためです」


 と言って決定することを望んだ。


「楚王(劉交りゅうこう劉邦りゅうほうの弟)は季父(叔父)であり、春秋が高く(年長者で)、天下の義理を多く経歴しており、国家の礼に明るい方である。呉王(劉濞りゅうび。劉邦の兄の子)は私にとって兄と同じであり、恵仁で徳を好む方である。淮南王(劉長りゅうちょう。文帝の弟)は弟であり、徳を兼ね備えて私を補佐してくれている。彼等は早くから立てられた後継者ではないのか(彼らが国を受け継ぐべきだ)。諸侯王や宗室・昆弟(兄弟)には功臣がおり、多くが賢才で徳義を有している。もし有徳の者を挙げて私では終わりを全うできない位(自分には相応しくない位)を継がせれば、それは社稷の霊(福)となり、天下の福となるだろう。今、選挙(賢人を選んで推挙すること)せずに必ず自分の子に継がせると言ってしまえば、人々は私が賢能有徳の者を忘れて自分の子だけに専心しており、天下のためにを憂うることがないと思うだろう。私は同意できない」


 それでも有司は頑なに言った。


「古は殷・周が国を有し、治安はどちらも千歳(千年)に及びました。これほど長い間天下を有した者は他にいません。それは、この道(子孫に継承する道理)を用いたためです。嗣(後継者)を立てる時に必ず子を選ぶのは、遠い昔から決められたことなのです。高帝は自ら士大夫を率いてやっと天下を平定し、諸侯を立てましたので、帝(漢帝)の太祖になりました。諸侯王や列侯で始めて国を受けた者も皆、それぞれの国(王国・侯国)の祖となりました。子孫が継嗣(継承)し、世世絶えることがないのが、天下の大義です。だからこそ高帝はこれ(太子を立てる決まり)を設けて海内を鎮撫しました。今、宜建(相応しい後継者)を棄てて諸侯・宗室から選ぶのは、高帝の意志ではなく、更議(後継者を変えるという議論)は正しいことではありません。子啓(皇子・劉啓りゅうけい)は最年長であり、敦厚慈仁ですので、太子に立てることを請います」


 文帝はやっと同意した。


 太子となった劉啓は後の漢の景帝けいていである。


 文帝は立太子を祝って天下の民で父を継ぐべき立場にいる者に爵一級を下賜した。


 三月、次に有司(官員)は皇后を立てるように請うた。


 皇太后・薄姫が言った。


「諸侯は皆同姓ですので、太子の母・竇氏を皇后に立てなさい」


 少し言葉だけだとわかりづらい。これは皇太子の母以外を立てると今後、諸侯を兄弟とし、共通の母を持つ上で歪みが生じるという意味である。


 こうして太子・劉啓の母にあたる竇氏が皇后になった。


 さて、皇后となった竇氏のことを話す。彼女は清河観津の人である。


 竇皇后には、竇広国、字は少君という弟がおり、幼い頃にさらわれて売られてしまった。竇広国は十余家を転々としていたが、竇氏が皇后に立ったと聞いて、自分の生い立ちを上書した。


 竇皇后が招いて験問(審問)してみると、間違いがなかったため、そこで田宅・金銭を厚く下賜して兄の竇長君と一緒に長安に住ませた。


 周勃や灌嬰らが話し合った。


「今まで我らは死ななかったが、これからの命はこの二人に懸かっている。二人は微賎の出身であるた、え、彼らのために師傅や賓客を選ばなければならない。そうしなければ彼らがまた呂氏を真似して大事を招くことになるだろう」


 大臣達は士の中から節行のある者を選んで二人と生活させた。


 そのおかげで竇長君と竇少君は退讓君子(謙遜できる君子)になり、尊貴な立場を利用して驕慢になることがなかった。




 



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