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蛇足伝  作者: 大田牛二


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薄姫伝 その一

(まるで今にも崩れそうな山に登る気分)


 女は母に連れられ、歩きながらそう思った。


 彼女は姓が薄で、名は伝わっていない。そのため彼女は薄氏はくし、または薄姫はくきと言われる。


 彼女の父は呉の人であり、まだ秦による統一がなる前、魏の王室の女性と結ばれて彼女が生まれた。つまり彼女は貴族であった。しかし、彼女は貴族らしい生活を送ったことはない。


 その後、秦の統一によって魏は滅亡したからである。


 そのため彼女は貧しい生活しか今まで知らなかった。そのためか母が魏の王室の王女と言われても全くピンとくることはなかった。


「姉上、綺麗なところですね」


 弟の薄昭はくしょうの言葉に薄姫は頷きながらも、


(外だけで中身はないわ)


 と毒づいた。


 今、彼らは魏の王宮にいた。


 秦によって天下が統一された後、始皇帝が死ぬと二世皇帝・胡亥こがいの世となった。


 彼は父である始皇帝よりも過酷な刑罰を行い、自分は贅沢な生活に溺れるなど、秦の政治は大いに乱れた。その結果、陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱が起こった。


 これにより、各地で反秦の勢力が立ち上がった。それは魏も例外ではなかった。


 陳勝によって派遣されていた周巿しゅうしが魏を占領すると人々は彼を魏王にしようとした。しかし、周市はそれを受け入れず、


「天下が昏乱すれば、忠臣が現れるものだ。今、天下が共に秦に叛した。義によって魏王の後代を立てるべきであろう」


 と言って、魏王室の公子で魏の甯陵君に封じられ、魏が滅んだ後、庶民となり今は陳勝に従っていた魏咎ぎきゅうを呼び、彼を魏王とした。


「魏が復活した」


 薄姫の母は喜び、魏の元に自分と弟を連れ、魏に向かった。


「必ずや私たちを快く迎え入れるわ」


 母は自分は魏の王室なのだから無下にはしないと言う。


(母の妄想じゃないの)


 未だに薄姫はそれほどの高貴な血が流れているとは思えない。その時、前方から杖を持った老人が歩いてきた。


「おお、これは」


 老人は薄姫たちに気づくと驚いた表情をしながら近づいてきた。そして、薄姫の顔をまじまじと見た。


「なんですか。あなたは」


 母は驚き、老人を追い払おうとした。すると老人は薄姫の顔を見ながら驚くべきことを言った。


「あなたは天子を産むことになりましょう」


(天子……)


 天子と言えば、二世皇帝・胡亥のことを本来指す。しかし、天子を産むということは胡亥と結ばれる他には、別の天子を立てるということである。


 母は老人の言葉に驚きながらも喜んだ。一方、薄姫は老人の顔に冷や汗が流れているのを見た。そして、老人が微かに呟いた言葉を聞いた。


「どういうことだ……私が沛で……」


 薄姫の母はお礼を老人にしようとしたが、老人は老人とは思えないほど速さで歩き去ってしまった。


 そこに別の男が来た。大変な美男子である。


「魏の王室に連なる方々ですね。王よりお聞きしております」


 男は自分を陳平ちんぺいと名乗り、魏王に仕えている臣下だと言った。


「感謝しますわ。一つお聞きしたいことがあるのですけどよろしいでしょうか?」


「何でしょう?」


「先ほど、老人に娘の相を見てもらいました。あの方がどなたかお分かりになりましょうか?」


 陳平は目を細め、言った。


「その方は許負きょふ様でしょう」


「まああの許負様ですの」


 母は更に驚いた。許負と言えば、人相を見る上で最高位の人物と言われている人物である。


「因みにどのような相だと申されたのでしょうか?」


 陳平がそう言うと母は答えた。


「天子を産むそうですわ」


(そんなことを本気で信じるの。それに言ってしまうの)


 薄姫は母を睨んだ。


「ほう……」


 陳平は目を細めた。それを見た薄姫は、


(良かったこの人はまともだ)


 彼が母の言葉を信じていないことにほっとした。


「魏王にもお伝え頂けますか?」


 母はそう言った。


(なるほど私を魏王の後宮に入れようということね)


 薄姫は許負の占いを利用して、自分を後宮に入れてあわよくばを狙っている。


(愚かなこと)


 魏王に取り入ったところで、この魏にどれほどの力があるだろうか。そもそも魏がこうして再び旗を上げた経緯はあまり良いものではない。


 周市は魏を復活させる上で、自分が魏王にならなかったのはまあ良いとして、彼は元々陳勝の臣下であったはずである。


 彼は魏の地域の平定を命じられていたのであって、魏の復活を命じられたわけではない。それにも関わらず、それを行った。


 そもそも彼が魏王を立てる前に狄を攻めていた。そこで立ち上がった斉王・田儋でんたんに破れており、彼は破れたことで、陳勝に罰せられるのを恐れた。故に魏王を立てて、陳勝に処罰される立場ではないように図ったのである。


(それなのに忠臣面する周市、それを受け入れ重んじる魏王)


 果たしてこの魏に秦を打ち倒すほどの力があるだろうか。


「わかりましたお伝えしましょう」


 陳平はそう言った。薄姫は伝えて欲しくないと思いながらも、自分が陳平の立場ならば同じことを言う。母が喋ってしまった以上、意味はない。


(魏の妾となれば、秦が反乱鎮圧に力を入れた時に殺されることになる)


 そうなれば自分を含めて家族は終わりであることを母は考えていない。


「では、こちらでお待ちください」


 陳平は大きな扉の前まで案内するとそう言って、離れた。少しして、彼が戻ってきた。


「では、どうぞ」


 扉が開かれ、奥に案内した。そこには魏咎がいた。


 その後、大広間で母と魏咎が少し話すものの、特に何かというほどではなく、薄姫らは大広間を出された。


(良かった。大した話にはならなかった)


 母は自分の娘を後宮に入れようとしたが、魏咎は聞き入れようとはしなかった。


(ああ、良かった)


 彼女は魏咎のことは大して評価していなかったが、母の言葉を信用せずにいたことは評価した。そこに陳平がやって来た。


「ご息女が呼ばれております。来てください」


「まあ」


 母が黄色い声を挙げ、薄姫は青ざめる。


「やっとあの子もわかってくれたのね」


「勘違いなさいませんように、ご息女をお呼びなのは、魏王ではなく王の弟君です」


(王の弟……)


 魏王・魏咎の弟は魏豹ぎひょうと言う。


(そう言えば、あまり好きな目をしていなかったわね)


 彼女が大広間の時に自分を見ていた魏豹の姿を見ていた。


「まあ、仕方ないわね」


 母はため息をつきながらも薄姫の方を向いた。


「いいわね、粗相のないようによ」


「はい……」


 薄姫は体が震えるのを感じながら陳平のついて行った。


「魏王の弟というのは……どんな人。頭は大丈夫な人?」


 薄姫は小声で、陳平に聞いた。


「一言で言えば、臆病な方です」


「そう……どうせなら、頭の良い男に抱かれたかった。はあ」


 彼女はため息をついた。


「では、私はここで」


 後宮のあたりに近づくと陳平は離れようとした。


「ねぇ、魏はこれからどうなると思う?」


 陳平は目を細めながら、手の内側を見せて、そこに草という字を書いた。彼はそのまま離れていった。


「抜き取られるか、切り取られるか……どちらにしてもろくな目に会わないということね」


 彼女は宮女に案内され、その夜、魏豹に抱かれた。










「こういう生活を送ることになるなんてね」


 彼女が魏豹の妾となってから数日が経った。


 彼女はかつての生活とは違い、多くの使用人に世話されながら毎日を過ごしていた。


 そこに弟から手紙が来た。


「そう、陳平が……」


 内容は陳平が魏を離れたというものであった。なんでも他の大臣から中傷を受けたことで、進言を聞き入れられず、去ったそうである。


「ここもやばいのね」


 彼女は弟に荷物を最低限にしておくことを伝えてから、自分の今後のことを考え始めた。


 この頃、天下の様相を大きく変化し始めていた。陳勝・呉広の乱による反秦の反乱は各地に広がり、各国が独立を図る中、秦は章邯しょうかんが軍を率い、反乱鎮圧に乗り出したのである。


 彼の率いる秦軍は勢い盛んで、次々と反乱軍を蹴散らしていき、遂に魏に迫り始めた。


 魏の宰相・周市は田儋と手を組み、章邯率いる秦軍と対峙した。しかしながら秦軍の勢いを前に敗れ去った。


 そのまま秦軍は魏都を包囲した。魏王・魏咎は国民の命と引き換えを条件に焼身自殺を遂げた。


「ああ、兄上が」


 魏豹は兄の死に大きく動揺していた。


「ここは逃げるべきです」


 その様子に苛立った薄姫は思わず、そう言った。


「先君は命懸けで作った時です。さあ、逃げましょう」


「しかし、どこに行くというのだ?」


 一刻の猶予もない中、そんなことを聞いてくる魏豹に更に苛立ちながら、彼女は言った。


「楚の項梁こうりょう様の元に逃げましょう。あそこならば、秦軍に対抗する兵がおります」


「だが、どうやってここを逃げる」


 魏豹は彼女に意見を聞いた。


「迷っている暇はありません。とにかく逃げるべきです」


 彼女は荷物を弟に命じてまとめさせ、魏豹とその臣下たちと共に逃げることにした。


「母上は?」


 薄姫が弟の薄昭に聞くと彼は、青ざめながら、


「魏王が自殺され、それに絶望して死にました」


「そう……」


(荷物は少ない方が良いわ)


 彼女は母の死を大して悲しまなかった。そのまま魏豹と共に江東にいる項梁の元に逃れた。


 項梁は魏王が来たことを喜び、彼にも兵を分け与えた。


「この兵で魏の領土を回復しても良いとのことだ」


 魏豹は喜んで、魏の領土を奪還するため出陣しようとしたが、それを薄姫は止めた。


「ここはしばらく楚軍について行き、おとなしくしましょう」


「なぜだ?」


 こんなこともわからないのかと彼女は頭を抱えそうになったが、


「二匹の狂犬が肉を巡って争っている時に手を出せば、手は傷ついてしまいます。二匹の犬が疲れ果て、残った肉を後で取れば良いのです」


「なうほど、そうか」


 魏豹は納得したように頷いた。それを見ながら薄姫は彼を見下す目を向ける。


(全く、こんなのが後の魏王……)


 彼女はため息をついた。


 この時、新たに項梁の軍に加入した者がいた。その男の名を劉邦りゅうほうという。薄姫の運命に大きく関わる人物だが、その運命は未だ交わってはいなかった。



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