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蛇足伝  作者: 大田牛二


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叔孫通伝下

 秦打倒を掲げた楚の中心人物であった項梁こうりょうの死は大きかった。その死を予見した人物に宋義そうぎという人物がおり、そのことから楚の懐王かいおうは彼を尊重し、彼を上将軍にしてその下に項羽こううを置いた。


(あれは人の下に置くのは難しい気がするが……)


 任命されるのを見ながら叔孫通しゅくそんとうは思った。


 宋義率いる軍は趙を攻めている章邯しょうかんの秦軍と戦って秦の都である咸陽を目指し、一方、別働隊として劉邦りゅうほうにも将軍に任命して別の方角から咸陽を目指させることにした。


(劉邦、項羽に比べると風采の上がらない方だ)


 劉邦を見ながら叔孫通はそう思った。だが、同時に、


(項羽以上に何を考えているのかがわからない)


 とも思った。今まで叔孫通は単純な性格のした者ばかり見ていただけに一目見て心のうちどころのわからない人物を見たのは始めてであった。


 そして、懐王は先に咸陽に至った者にその地の王にするとした。後々に問題を残す発言なのだが、それについては記述しない。


 ともかくこうして、楚軍は二つに分けて、咸陽を目指すことになった。


 その後、懐王の元に顔を青ざめる報告がもたらされた。


「項羽が宋義を殺したのか」


 懐王は恐怖で震えた。


 叔孫通は詳しい報告を見た。そこには宋義が斉と通じていたなどと書かれていた。


(真実かどうかは別としてだ。さて)


「王、直ぐに項羽に上将軍に任命することを伝え、楚の諸将の統率を任せるよう進言なさるべきです」


 と、彼は進言を行った。


「そうだな。項羽を上将軍とする」


 こうして項羽は上将軍となり、章邯と戦い打ち破るなど快進撃を繰り広げたのだが、咸陽に先にたどり着いたのは劉邦であった。


 項羽は激怒し、一触即発となったが、鴻門の会において一先ず手打ちとなった。


 項羽はその後、咸陽の阿房宮らを燃やし尽くした。


(上司の殺害、阿房宮を燃やすか。項羽という人は残虐な人だ)


 更に項羽は咸陽に行く前に降伏した秦兵を穴埋めにしたという。


(恐ろしい人だ。その項羽によって、天下は運営されるのか)


 それは果たして秦の時よりもより良いものであると言えるのかどうか。


 項羽は功績があった者たちを各地に王として封建し、劉邦は漢の地に押し込まれた。


 だが、項羽の人事には偏りがあり、その結果、各地で反乱が起こって項羽自ら鎮圧を行わなければならなくなった。


 更にこの事態の中、項羽は懐王を義帝としながらも彼を長沙に送りそこで殺害してしまった。


(どれだけ殺すのだろうか。項羽という人は)


 叔孫通は懐王の元にいたが、長沙に同行はしなくとも良いとされた。彼が項羽に上将軍にするよう懐王に進言したことが項羽にいい印象を与えたようである。


(まあ良かった。良かった)


 彼は天下が震動する中、弟子たちに教えを授け、天下の同行を見守った。


 その後、漢王・劉邦が義帝の仇を打つとして挙兵し、項羽が斉で戦っている間に楚の都・彭城を落とした。


「さあ、漢王の元に向かうか」


 叔孫通は劉邦に降伏することを伝え、彼に謁見した。


 劉邦は叔孫通を見ると露骨に嫌な顔をした。


(おや、やけに感情がわかりやすいものだ)


 彼の劉邦への印象はわからないというものであっただけに意外であった。また何故、劉邦が嫌な顔をするのかを彼は直ぐに理解した。


(儒者が嫌いというのは本当だったか)


 叔孫通は、失礼すると言って一旦、席を外し少しして戻ってきた。すると後ろの方にいた弟子たちが驚いた。


 彼は席を立つ前は儒服であったのが、楚の服に着替えていたのである。


 儒者としてはあまり好ましいことではなかった。だが、劉邦はそれを見るとにっこりと笑った。そして、彼に酒を注ぐなどさっきまでの露骨な態度とは一変した。


(単純な人だったのか。しかし、儒教を嫌っているとなると……)


 そこまで考えると不意に劉邦は彼に顔を近づけた。


「おい、お前は俺のために何ができる?」


 叔孫通は心の底から恐怖した。劉邦は彼に対して笑みを浮かべ、その態度は良好そのものである。されど、彼は劉邦の態度に恐怖した。


(これが劉邦か)


 劉邦という人は笑みを浮かべながら怒ることができる。怒りながら相手の言葉に関心することができる。頭を下げながら、相手を殺すこともできるだろう。


 この人はあることを行いながらも逆のことも心の中で行うことができる。つまり、好きだと言いながら相手を嫌うことができる。だが、それ以上に逆のことばかりではなく、同時に他のことも計算することもできるのが劉邦である。


(複雑な人だ)


 だが、複雑であるからこそ一度、彼を感動させることができれば、深い信頼を得ることができる。単純な人というのは、感動を与えてもそれが直ぐに信頼に結びつかないものだ。


「正直にお申し上げます。私は王様の役に立つことにおいて、王様に仕えている方々に比べれば、役に立たないと思います」


「ほう」


 劉邦は笑みを浮かべながらも目を細めた。叔孫通の言葉に面白さを感じたのである。


「しかしながら王様。私は必ずや一度だけはお役に立つことができます」


「その一度というのは、いつ示してくれるというのか」


「それはわかりません」


「そのいつ示されるかわからない一度のためにお前を用い続けよというのか」


「はい」


 叔孫通は劉邦の目を真っ直ぐ見た。


「おめえ、本当に儒家か?」


 劉邦は少し言葉を崩した。恐らく本来の劉邦の言葉なのだろうと叔孫通は思った。


「ええ、儒家です」


「儒家らしくねえ。儒家ならよ、この時でも下らない礼儀とやらに拘るが、おめえはどうも違う」


 弟子たちは下らない礼儀と言われ、怒りを表す者もいないわけではなかったが、叔孫通が何も言わないため、弟子たちも我慢した。


「だが、おめえさんは礼儀というものを軽視しているわけじゃねえ。その点は儒家だなあ。なあ、そんなに

 礼とやらは守るべきものなのか」


「はい」


「はっ、礼なんてもので何ができる」


「それを約束した一度で示したいと思います」


「へぇ。そうかい」


 劉邦は酒を飲んだ。


「人というやつは得意、不得意というものがあってよう。それの数の大小はあるが、大抵一つはある。おめぇの一度というやつを信じてやる。だが、必ずや一度は役に立てよ」


「はい、必ずや」


 叔孫通は拝礼を持って答えた。


 それを見ながら劉邦はまた、酒を飲んだ。







 その後、項羽が斉から帰還し、彭城に集まった漢軍ら諸侯軍は項羽の神懸かり的な戦を前に破れた。


 劉邦もどこに行ったかわからない中、叔孫通も弟子たちと共に逃げていた。


「どうしますか?」


 弟子は彼にそう問いかけた。どうするというのは項羽に降伏するということである。


「漢王とは一度は必ずや役に立つと約束した。それを破るわけにはいかない」


 劉邦は裏切られることを誰よりも嫌う人である。もしここで項羽に鞍替えするような真似をすれば、必ず痛い目にあうだろう。


 彼は敗残兵を集めていた韓信かんしんの元に逃れた。韓信は項羽の元を離れ、劉邦に仕えて大将軍となっていた。


「韓信殿」


「叔孫通殿か。ご無事で何よりだ」


「漢王は?」


「行方はわからぬ」


 韓信は首を振った。


「直ぐに探されないのか」


「ここで陣を乱すような真似はできない。項羽に負けてしまうからな」


 その後、劉邦は滎陽にいることがわかり、暫くして韓信は兵を率いて合流した。そこで韓信は項羽以外の諸侯を討伐を命じられ、劉邦は項羽と相対した。


 叔孫通は劉邦に従い、彼に自分に従っている百人余りの弟子たちではなく、元群盗や壮士といった連中ばかりを推薦した。


「私たちは先生に数年も従ってきたにも関わらず、何故、先生はあのような者たちばかり推薦されるのですか?」


 彼は弟子たちを宥めていった。


「漢王を始め皆、剣を持たれて天下を争っている諸君らのような儒者がどのように戦えようか。故に戦える者を推薦しているのだ。しばらく待っておれ」


 劉邦は叔孫通を博士とし、稷嗣君の称号を与えた。


 その後、劉邦は項羽の勢力を打倒し、天下統一を果たした。


 諸侯が彼を皇帝に奉ると、叔孫通がその儀礼や制度を整えた。


 劉邦は秦の煩わしい礼式の尽くを廃してしまい、法式を簡易にした。その結果、大臣たちは朝廷での宴会の際に自分の功績を誇り、酔って叫びだしたり柱に斬りつけるなどという有様であった。


 流石にこれを見た劉邦も困り果てた。そこで彼は叔孫通を呼んだ。


(ついに来た)


 叔孫通は劉邦の招きに応じた。


「おい、先生よ。先生に頼みたいことがあるんだ」


「はい、朝廷における儀礼のことですね」


「そうだ」


 劉邦が頷くと叔孫通は拝礼した。


「そもそも儒者は進取には役立ちませんが守成には役立つものです。魯の儒者を召して、私の弟子たちと共に朝廷での儀礼を制定させましょう」


「礼は俺のような者にとっても難しくはないか?」


 と、劉邦が聞くと、彼は答えた。


「礼とは王朝と共に変わるものであり、同じ礼を繰り返すものではないのです。古の礼と秦の礼を抜粋し、漢朝の礼を作りたいと考えております」


 劉邦は笑みを浮かべ、


「俺にもできるようなものにしてくれよ」


 と言った。叔孫通も笑みを浮かべ、


「はい」


 と答えた。







 叔孫通は儀礼を作るために儒者を集めようとした。しかも彼は自ら儒者を訪ね歩くというやり方を取った。彼には誠実さがあると尋ねられた儒者たちは彼と共に長安に向かったのだが、一部の者が叔孫通を批難した。


「汝が仕えた人物は十人ほどいたが、その都度、媚びへつらって地位を得た。今は天下が統一されたばかりで死者も葬られず、傷ついた者たちの傷は癒えていないにも関わらず、礼を興そうとしている。礼というのは百年も徳を積み重ねて初めて出来るものである。我らはそのような古の行いに背くようなことはできない。早々と立ち去られよ。私たちを汚そうとしないでくれ」


 その言葉に叔孫通は笑った。


「お前らのようなやつらを人は鄙儒というのだ。時勢というものを理解できていない」


 こういう儒者なら劉邦が嫌うのも無理はない彼はそう思った。


 やっと三十人集めると彼らと弟子たち百人余りと野外で、縄を張り茅を立てて目印とし、一ヶ月余り新たな儀礼の練習を行った。


 その後、叔孫通は成果を試しに劉邦に見せると、彼はその儀礼を行うよう命じて、


「これなら俺でもできるぞ。先生」


 と言って喜んだ。


 その後、群臣たちにもその儀礼を学ばせ、歳首十月をもって朝会を行うことにした。


 紀元前200年


 長楽宮が完成し、諸侯・群臣は十月に参朝拝賀した。


 その際に叔孫通の定めた儀礼を持って行われ、詳しい手順などは省くが皆、彼の定めた儀礼通りにことを行い、できなかった者はその場から追い出されるなどされた。


 そして、かつては宴会の際に自分の功績を誇り、酔って叫びだしたり柱に斬りつけるなどという有様であったのが、誰も礼を失うようなことをせず、儀礼に沿って行われた。


 それを見た劉邦は感嘆し、


「ああ、私は始めて皇帝の高貴さを知った」


 と言い、叔孫通を招いて彼を奉常とし五百斤を与えた。叔孫通は劉邦に請うた。


「私に長年従ってきた弟子や儒者たちがこの制度を共に作りましたので、願わくば、彼らに官位をお与えください」


 と願った。そのため劉邦は皆を郎中とし、叔孫通は賜った五百斤を儒者たちに分け与えた。


 弟子たちを始め、儒者たちは、


「先生は聖人である。時勢に合ったなすべきことを理解された方だ」


 と大いに喜んだ。


 その後、叔孫通は儒者ながら劉邦の信頼を受け、恵帝けいていの世においても漢における儀礼の作成に携わった。


 ある春の日、叔孫通は恵帝に進言した。


「古えにおいて春に果物を宗廟に奉げるものでございました。この頃は桜桃ゆすらうめの熟しておりますので、献じるに最適かと思います。どうか、出遊なさる時にでも桜桃を宗廟にお供えくだされましょう」


 彼のこの進言によって以後、宗廟に果物が献じられるのが、盛んになった。


 現代においても墓に果物をお供えするのは彼の残した礼式の一つである。






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