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蛇足伝  作者: 大田牛二


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叔孫通伝上

思った以上に長くなりました。

 ある日、かつて魯の国の領域の一つであった薛郡のある家に役人がやって来た。


(遂に来たか)


 男は心の動揺を落ち着けながら、書を読んでいた。だが、内容はほぼ理解できていないどころか。近くのロウソクがゆらゆらしているのを何度も見てしまっている。


(これを読んでいるよりは隠した方が良いのではないか)


 男が読んでいるのは、書である。つまり儒教の書物である。


 何故、それを隠さなければならないという発想になると言えば、男が生きている時代は秦の世だからである。


 秦は紀元前213年に秦の博士・淳于越じゅんうえつが郡県制を非難し、封建制に戻すべきという意見を出したことがきっかけにより、秦の丞相・李斯りしが儒者が現政権を批難していると主張し、それを始皇帝が認めたことで、儒教を始め様々な思想家の書物を燃やす、後の言う焚書を行うよう天下に命じられた。


(儒者以外の者たちにはいい迷惑なことであったことだろう)


 その点において儒者には罪がある。儒者が変に秦へちょっかいをかけなければ、他の思想書まで燃やされることはなかったかもしれない。


(その後の悲劇もそうだ)


 翌年、廬生ろせい侯生こうせいといった方士や儒者が、始皇帝が刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺したのである。


 所謂、坑儒と呼ばれる事件であり、先年の行為と合わせて、後世では焚書坑儒と呼ばれる。


(自分の意見を述べた結果、どうなるのかを計算に入れないから罪も無い者たちが巻き込まれる。淳于越も廬生も侯生も学問をやった癖にそれがわからなかった)


 そして、自分も今、巻き込まれようとしている。確かに秦の法律に背いて書を読んでいる。だが、それ以外は何もしていないではないか。


(くそ、書を呼んだくらいで、処罰される世にしたのは、命じたのは始皇帝でもきっかけを作ったのは儒者だ。馬鹿な儒者だ)


 そんなことを考えている場合ではないのに、こんなことを考え、書を読んでいる男は内心では相当、混乱していたのである。


 屋敷に入ってくる音が聞こえてくる。


(あああ、来た、来てしまった。隠せば良いのに、隠さず、何故のんきに読んでいるのだ。馬鹿だ。私は馬鹿だ。そもそも逃げれば良かったじゃないか。いや、それでは結局、逃亡者になるからなあ。まあここで捕まっても罪人として扱われるのだから同じことでは……)


 ふと、男はロウソクを見た。そして、そのままそのロウソクの火に書を近づけそのまま燃やした。


(なんという。馬鹿な男だろうか。私は)


 男はある程度、書が燃えたのを見ると何度も踏みつけて、消火する。


 さあ男の部屋に役人が入ってきた。


「おや、どうされたのですかな。それは?」


 役人の問いかけに男は気になさらずと言いながら答えた。


「いやいや。ちょっとロウソクを落としてしまったものでして」


「そうですか……まあ良いでしょう。叔孫通しゅくそんとう殿ですな」


「はい、左様でございます」


「主上は汝を招いている。我々と来てもらう。従わない場合は……」


「はい早速、参る準備をいたします」


 叔孫通は内心ではほっとしながら、役人に従うことにした。


(招くということは処罰されるわけではなかろう。ああ、書を燃やさなければ良かったか)


 彼は灰と化した書を見ながらため息をついた。











 叔孫通が招いたのは、始皇帝ではない。始皇帝は紀元前210年に世を去り、世は二世皇帝・胡亥こがいの世となっていた。


 彼が秦の都である咸陽に着くと、そこには彼の他にも儒家と思われる者たちがちらほらといた。


(私だけが招かれたわけではないのか)


 自分が認められたわけではないそう思うと残念だが、同時に希望も持った。


(儒者を集めるということは始皇帝とは違う政治を行うという意思を示したことになる)


 儒者の理想とする政治が行われるかもしれない。彼だけでなく皆、そのような希望を持ったことだろう。


 その希望は直ぐに砕かれた。


 叔孫通はやがて博士になった頃、秦の政治は大いに荒れた。確かに二世皇帝は始皇帝とは違う政治を行ってと言える。始皇帝の頃よりも遥かにひどい政治という意味で、行った。


 始皇帝陵や阿房宮、万里の長城の建築を推進し、匈奴の侵攻に備えるべく大規模な徴兵を行い、二世皇帝自身は、贅沢三昧の生活を送った。


(はあ、駄目だ。駄目すぎる)


 彼はため息をついた。


 紀元前209年


 ついに秦の治世に激震を与える出来事が始まった。陳勝・呉広の乱である。


 これをきっかけに各地で反乱が勃発し、天下は大混乱となった。


 しかし、二世皇帝・胡亥はそのような事態にも関わらず、贅沢な生活を改めなかった。流石に以上というべき態度であった。実は彼を擁立した宦官・趙高ちょうこうによってこの大乱について握りつぶされたのである。


 儒者たちは集まってこの事態を報告すべきだと考え、実行した。その中には叔孫通もいる。


「皇帝陛下。今、天下は騒乱となっており、各地では謀反が起きております。直ぐにでも大規模な鎮圧を行うべきであり、決して許すべきではありません。どうかご決断願います」


 後ろの方で、拝礼を行う叔孫通はちらりと二世皇帝の近くにいる趙高を見た。


(余裕がある……)


 自分たちの意見を聞けば、二世皇帝は現状を知らせなかったとして、趙高の責任追及を行うはずである。それにも関わらず、余裕があるということは……


「ふざけるな」


 怒号が朝廷を響かせた。


「何が謀反が起こっているだ。天下が騒乱しているだ。私の治世がなっていないとでも言うのか。この私の治世がだ」


(ああ、この皇帝は私たちが考えている以上に駄目だ)


 叔孫通は心の底から、招きに応じず逃げれば良かったと思った。


「左様でございます。皇帝陛下。この者たちは自分の意見によって国を動かしたという結果が欲しいだけなのです。そのためたかが賊のような連中を彼らは反乱軍や謀反人だとか。敢えて事を大きくしようとしているのです」


 二世皇帝は自分の贅沢にしか興味はなく。同時に自分が優秀な人間であり、選ばれた存在だと思っている。そのため自分の治世は完璧なのだと考えている。


 そして、そう思わせている趙高の凄まじさがここにはある。だが、この趙高の発言は叔孫通にとっては天啓であった。


(趙高は良いことを言った)


 もし、趙高が何も言わなければ、自分を含めここにいる者たちは皆、殺されていただけであろう。


 叔孫通は進み出て言った。


「全くそのとおりであり、諸先生方は間違っております。そもそも秦は天下を一家同然とされ、郡県の城壁を壊し、武器を潰し二度と用いられないようにされました。その上、明君が上におられ、法令は下に行き届き、役人や人々はそれに従い、職に努め四方から民が集まり、帰服することは車の輻が轂に集まるかの如きであり、どこに謀反人がいることでしょうか。報告にあった者たちなどは、群盗などの類に過ぎません。歯牙にかける必要などございません。郡の守や尉が今にも捕らえ、誅殺を加えることでしょう。少しも心配はいりません」


「汝の言うとおりだ」


 二世皇帝は大いに喜んだ。


 そして、他の者たちに謀反人による者か賊によるものかを問いかけ始めた。ある者は謀反人によるものと言い、ある者は賊だと言った。


 叔孫通は謀反人だと言った者たちを見て、内心舌打ちした。


(馬鹿めが)


 二世皇帝は謀反人だと言った者たちを捕らえ、言うべきではないことを言ったとして、処罰した。そして、叔孫通には帛二十匹と衣服ひと襲を与え、更に黄金も渡して彼を主席博士に任命した。


 叔孫通が宿舎に戻ろうとすると、処罰されなかった者たちが彼に詰め寄った。


「何故、あなたはあのような媚びへつらいを行うのか」


 すると彼は言った。


「あなた方は理解できていないのか。私どもはあともう少しで虎口の中に飛び込むところだったのですぞ」


 自分のお陰であなた方はこうして生きているじゃないか。それなのに自分を批難するぐらいなら、謀反人と言った連中の方が人としての美しさは上であっただろう。


(馬鹿にも上下はある)


 そのようなことを考えながら叔孫通は宿舎に戻った。


 宿舎には自分に褒美として与えられた者があった。それを見て、暫く叔孫通は見ていると不意に目から涙が流れた。


(あんなことでこの褒美がもらえるなど……こんな形で褒美をもらうために私は学問を学んだわけではない)


 自分は大した人物ではないことは誰よりも理解している。それだけに今回のような形で褒美をもらえたことが辛かった。


「何も泣いているのですか?」


 妻が彼にそう言った。


「私のような者がもらうべきではないものをもらったからだ」


「それでも頂いた以上はあなたのものではありませんか。そうですわ。天があなたに与えたのです。そう思えば、良いではありませんか」


「天が……何のために?」


「さあ?」


 妻は小首を傾げる。


(天が私に……)


 叔孫通は黄金を手にとった。


「天は私に何を望むのか……そうか私に……聖人の残したものを守れというのか」


 そのためにこれらを使えということではないのか。


「私がやるべきことがわかった」


 彼は妻にここを去る準備を行わせ、官を去って、故郷の薛に帰ることにした。










(どうすれば、聖人の残したものを守れるのか)


 叔孫通はそう考えながら、薛に帰ると既に秦打倒を掲げる項梁こうりょうを中心とする楚に降伏していた。


(あの馬鹿な皇帝は倒され、新たな王朝ができる)


 彼は秦は倒れると考え、次の時代の作り手となるだろう項梁に仕えることにした。項梁は彼を快く迎え入れた。


 項梁は范増はんぞうを始め、多くの人材を迎え入れていたのである。


 しかし、叔孫通は飽くまでも学者であり、戦のことはわからないため、大して良い地位は与えられなかった。


(まあ仕方ない)


 彼自身はそう思っていたが、彼には多くの弟子たちが従っており、彼らは不満であった。


 そんな彼らを宥めながら叔孫通は項梁に従った。


 陳勝・呉広の乱の首謀者である陳勝らは既に亡いが、反乱は止まらず、楚を率いる項梁の勢力が台頭していた。


 流石にこの事態を前に問題の大きさがわかった二世皇帝・胡亥は章邯しょうかんを派遣し、反乱鎮圧を行わせ始めた。


 武信君と号している項梁は勢いを持って連戦連勝を行い、章邯にも何度か勝利して定陶に駐屯した。


「将軍、将軍」


 項梁が巡察を行う中、一人の男が進言を行おうとしていた。


「章邯はわざと負けているのです。警戒を強めるべきです」


 男はそう進言し、更に地図を広げて、


「例えば、ここやこの点を中心に警戒を」


 地図を示しながら男は進言を続けたが、項梁は彼の進言を無視した。


「くそ、私は負け戦が嫌いなんだ」


 男は舌打ちした。そんな男を項梁の傍で見ていた叔孫通は戦がわからないため、なんとも言わなかったが、それだけに彼の言うとおり負けるかもしれないという危機感をもつことができていた。


 そのため項梁が章邯に敗れてると弟子たちをまとめ、どうにか戦に直接巻き込まれないようにした。しかし、秦に包囲されてしまっていたため、楚の彭城への帰還は難しかった。


 そんな時、項梁に進言していた男が数人の仲間と共にいるのを見た。


「そこの方、私どもも同行してもよろしいか?」


 男とその仲間たちは叔孫通と弟子たちを見て、仲間たちが男に囁いた。


「どうする韓信かんしん


 ここから逃れる上で、数が多いのは逃げる上で難しさが増すと韓信の仲間たちは考えたのである。


「着いて行くのは構わない。だが、私の意見には必ず従ってもらう良いな」


「ええ、構いません」


「良し皆、お前たちは私が必ず生きて帰す」


(すごい自信だ)


 叔孫通は韓信を見ながらそう思った。


 韓信は周囲にいる秦兵を探し、それを襲って鎧を剥ぐという行為を行った。


(学者だったのだが、すっかり盗賊だ)


 叔孫通はそう思いながらも不満をもつ弟子たちをなだめつつ行った。


 秦の鎧を来た韓信は秦兵の一人を生かして捕らえ彼を脅しながら彼に合言葉を言わせるなどして、秦の陣営を堂々と通り、脱出した。


「これで良いだろう。俺はここで解放させる」


 秦兵がそう言うと、韓信は剣の柄で彼を気絶させた。


「その者を気絶させてどうする?」


「楚に戻ったときに恐らく私どもは疑われることになる。そのための証人としてこの男が必要なのです」


 韓信の言ったとおり、楚に戻るとどのように戻ってきたのかを問われ、韓信は秦兵に証言させてどのように脱出したのかを説明させた。


 しかし、それでも納得しようとしない楚兵に叔孫通が言った。


「私は武信君に仕えておりました叔孫通でございます。范増殿も私のことはご存じであるはずだ。范増殿に取りなしをいただきたい」


 そう言ったため、しばらくして彼らは許された。


「以前よりも猜疑心が増している。あれは武信君よりも猜疑心が強いので叔孫通殿、お気を付けを」


 韓信はそう言って、別れた。彼の言うあれとは項梁の甥である項羽こううのことである。


 叔孫通は項羽に謁見した。


 若いながらも見たことのないほどの威を備えた人物であった。


「武信君に仕えておりました叔孫通でございます」


「そうか。下がって良いぞ」


 項羽はそれだけ言って、彼を退出させた。


(ふむ、なるほど猜疑心が強いというよりは単純な人だ)


 あからさまな感情の見せ方から彼はそう思った。


「難しいものだ」


 叔孫通はため息をついた。











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