Side-O 魔族の母
城の敷地内を一通り歩き回ってから、俺たちは最も高い建物である本塔に戻り、その中央に位置する大階段を昇っていた。
「そろそろ夕食の時間だが、先に部屋に案内しよう」
「え? 部屋?」
オリビアの歩調に合わせて階段を登りながら言うと、彼女は小首をかしげた。
「ああ。今日は人間界へ帰る気はないんだろ? だったら寝泊まりする部屋くらいないと困るだろう」
「まあ……婚約を破棄できるような材料が手元にないですから、何日かは魔界に残ろうとは思っていましたけれど……」
「だったら魔王城に泊まっていくといい。ここならば、事情を知らない魔族に襲われる心配はない。俺が城内にいる限り幻術をかけ続けていられるからな」
「そんな! そこまでしてもらうのは申し訳ないですよ!」
俺の申し出にオリビアは激しく首を振る。
勢い余って首が取れてしまいそうだな。
「そう言わずにさ。この城は馬鹿にでかいから客室がたくさんあるんだ。でも客なんて滅多に来ないから、使う機会がなくてもったいないんだよ。遠慮せずに、というかむしろ使ってくれ」
「ほ、本当によろしいのですか?」
「ああ」
「わざわざ部屋まで用意していただくなんて申し訳……いえ、ありがとうございます」
「っても部屋を手配したのは俺じゃないから。礼ならハルバードに言ってくれ。……さ、着いたぞ」
階段を何階分か登り、賓客や四天王、それに魔王の親族らが寝泊まりするフロアに到着した。
そのうちの一つ、扉が開かれ明かりがついている部屋にオリビアを案内する。
「わあ……広いですね」
「なにしろ賓客用の部屋だからな。これくらいの広さがないと苦情が来る」
話しながら中に入っていくと、彼女はカーテンが閉じられている窓の先に何かを見つけ瞳を輝かせた。
「バルコニー!」
後についていくと、彼女の言う通り城下町を見下ろせるバルコニーがあった。
「本当にわたしが使ってもよろしいのですか?」
「何度も言わせるな。余りすぎて困ってるぐらいなんだから、むしろ使ってくれた方が嬉しい」
念を押すように再度確認をしてきた彼女に淡々と言葉を返し、バルコニーに出る。
雲に覆われた空には当然月は出ていないが、城下町の仄かな光が醸し出す幻想的な光景に、オリビアは恍惚とした表情を浮かべ、そっと呟いた。
「こういう素敵な景色が見える場所でワインなんかを飲めたら最高ですね」
「持ってこさせるか?」
「……え? あ! い、今のはなかったことにしてください!」
「どうした? そう恥ずかしがることではないだろう」
「恥ずかしいですよ! お酒を飲みたいなんて、おじさんみたいなことを言ってしまって!」
「おじさん……確かに」
「……そこは否定してほしかったです……」
白い息を吐きながら頬を朱に染める彼女とそんなやりとりをしていると、部屋に一人の女性が入ってきた。
一瞬オリビアは表情を固くしたが、怖がる必要はないと合図し部屋に戻る。
黒い髪を後ろで束ねたふくよかな女性は俺たちのすぐそばまでやってくると、優雅に微笑んだ。
「おかえりなさい坊っちゃま。それからはじめまして、お嬢さん。あたしはマリア。この城の侍従長を務めている」
「……」
なぜか上機嫌で挨拶するマリアに俺はげんなりした。
丁寧な物腰で坊っちゃまとか言うのやめてほしかった。恥ずかしい。
そんな俺とは対照的に、オリビアはドレスをちょこっとつまんでお辞儀をした。
お嬢さんとか言われて恥ずかしくないのだろうか。
「はじめまして。ドラゴニカ家三女、オリビア・ドラゴニカです。以後お見知りおきを」
「あらかわいい。こんなかわいいお嬢さんにプロポーズされるだなんて、坊っちゃまもやるじゃないか」
「何で知ってるんだよ……」
「ハルバード様が盗聴室でこそこそしてたんでねえ、問い詰めて聞き出したのさ」
何それ怖い。
まあいい。結婚して下さいとは言われたものの、それはあくまで人間界に戻った時のことを考えてのことだし、本心からそう言われたわけではない。
訂正しておこう、と思ったのだが。
「それにしても“人間の”お嬢さんからプロポーズされるとはねえ」
俺が口を開くよりも早くマリアに先手を取られてしまった。
というかハルバードのやつ、オリビアが人間だってことまで喋ったのか?
「それもハルバードからの情報か?」
「いーえ、彼はお嬢さんが人間だなんて一言も言ってないよ」
「ならどうしてわかった?」
「坊っちゃま、あたしを誰だと思ってるんだい? 魔王城に勤続200年超のベテラン・【魔族の母】マリアだよ。幾人もの魔王や魔族を見てきたし、人間と関わったこともある。いくら幻術をかけようとも、数多の魔力の香りを嗅いできたあたしの嗅覚は誤魔化せないよ」
つまりこういうことか。
ハルバードは俺とオリビアとのやりとりの一部は明かしたものの、彼女の正体については俺の言いつけを守り黙秘した。マリアも話を聞いた時はオリビアのことを魔族だと思っていたが、この部屋に入り魔力の香りを嗅ぎ取った、と。
人間と魔族の魔力香の違いを嗅ぎ分けるのはかなり難しい。魔王軍の幹部格でもそれができる者は限られている。それをいとも容易くやってのけたマリアは、やはり【魔族の母】と呼ばれるだけのことはある。
今更ながら恐ろしいやつだ。
どうせバレてるなら隠すこともあるまいと思い、俺はオリビアにかけていた幻術を解いた。
「この通り、彼女は人間だ。わかっているとは思うが誰にも話すなよ?」
「安心しな、あたしはこう見えても口が堅いんだ」
本当だろうか。俺にはマリアの口にチャックが付いているようには見えない。
「その言葉を信じるとしよう。それよりも今は夕食だ。マリア、彼女を食堂に案内してくれ」
「任せときな。坊っちゃまは食べないのかい?」
「ああ。今日は食欲がないんだ。少し風に当たってくる」
「また遠くに行くとハルバード様に怒られるよ」
「わかってる。庭に出るだけだ」
「気をつけて行くんだよ」
庭に出るだけで大げさな、とは思ったが、口答えせず苦笑するに留める。ハルバードもマリアも俺にとっては親みたいなものだ。出来る限り逆らいたくない。
……ああ、ダメだな俺は。こういう考えをしているからいつまでも自己の主張ができないのだ。この調子では人間界へ遊学するという夢は夢で終わってしまう。
そのことも含めてじっくり考えなければ、とバルコニーに出ようとして、オリビアの幻術を解いたことを思い出す。
マリアに正体を明かすためだったとはいえ、わざわざ解く必要はなかったかもしれないな。
そんなことを思いながら彼女に幻術をかけ直し、俺はバルコニーから飛び降りた。
◇
「そうか、やはりダメか……。いやいいんだ、あんたが気にすることじゃない」
オリビアをマリアに託してから数時間後。
俺は北門付近のある場所に来ていた。
「お、懐かしいなお前。何? だんだん今の生活に飽きてきた? お前たちも大変だなぁ。
あぁ、お前も久しぶりだな。元気にしてるかって? 見ての通りさ」
周囲には樹木や背の低い植物が鬱蒼と生い茂っている。
こんな人目の付かない暗い所で何をしていたかというと、ずっと考え事をしていた……わけではない。
初めのうちはこれからどうするべきなのかとか、オリビアのことなどを考えていたが、結局いつものように考えがまとまらず、気分転換に親しい者たちと会話をしていたのだ。
ただ門番や夜間巡回をしている兵士達に彼らの姿を見せるわけにはいかないので、わざわざこうして小さな林に来ていた。
元々ここには籠城する場合に備えて果物の木を植えたらしいのだが、なぜか実が育たない上に夜になると出るとの噂がたち、今ではあえて近づこうとする者はいない。
それゆえ巡回の兵士にも見つからず、誰にも干渉されないでいられる。他にこんな場所はないので、俺は風に当たりながら考え事をしたくなったら必ずここに来るようにしていた。
そして俺の話し相手の彼らであるが、噂を恐れない物好き、というわけではない。彼らこそが噂の根源。未練を残したまま亡くなり、黄泉の国へ行こうにも行けない浮遊霊たちである。
一般に誤解されがちだが、霊というものは基本生きている者を襲うことはない。生者のためにも自分たちのためにもならないと理解しているからだ。
未練のみならず強烈な恨みを残して亡くなった者は腐死者や悪霊となって人を襲うこともあるが、それは例外だ。
ではなぜ出るなどという噂がたったのか。それは一部は俺のせいだ。小さい頃から死霊術に傾倒していた俺がよくこの場所で練習していたため、噂が広まってしまったのだ。
とはいえ俺が城に住み始める前から噂はあったらしい。
霊から聞いた話によると、魔王軍に所属していた死霊術師たちが代々この場所を使って死霊術の練習をしていたため、いつしか噂がたつようになったのだという。
「それにしても死霊術は難しいな。いやいや、謙遜なんかしてないさ。なんたって呼び出したい相手を呼び出せないんだからな。俺もまだまだだ」
どれくらい時間がたっただろうか。
そろそろ城に戻るかと腰を上げた時、林の中に何者かが入ってくる気配がした。
……魔力を感じない。結界でも張っているのだろうか。怪しいな。
相手はゆっくりと、しかし着実に近づいてくる。
そいつが俺の背後で立ち止まったのを察知し、俺は逆にそいつの背後に回り込んだ。
「動くな」
右手で相手の両腕をつかみ、左手を喉元に当てる。相手は何が起きたのか思考が追いつかないようで、ピタリと固まった。
「話を聞かせてもらおうか」と言おうとしたところで、俺はふと違和感を感じた。
相手の服装は戦いにきたというよりも、寝間着のようなゆったりとしたもので、しかも身体からかすかに石鹸の匂いがする。
そして、頭部には魔族の角が生えていない。
俺と同じくらいの身長の相手……いや彼女の魔力の香りを嗅ぎ、ようやく正体がわかった。
「……何をしに来たんだオリビア」