Side-O その報せは世界を越え
北の魔王軍との戦いから時は流れ、魔界は夏の盛を迎えていた。
あの戦いが終わってからは東の魔王領に特に不穏な空気は流れていない。唯一懸念があるとすれば、魔物の個体数が減ってきていることくらいだ。
俺がオリビアと出会った頃に編成された調査隊からの報告によれば、最近、以前よりも減少する速度が早まっているとのことだ。だが未だ原因は不明だ、とも。
これはまだ、結果が出るまでにしばらく時間がかかるだろう。直接東の魔王領の平和を脅かしているわけでもないし、長い目で経過を見守ろう。
それから、城下町には変化も起きている。
人間の受け入れを表明してから、徐々に地上でも人間の姿を見かけるようになってきた。まだ居を構える者は少ないが、着実に以前よりも交易量は増えてきている。経済的、文化的に好ましい変化だ。
また人間界への遊学についてだが、これは一旦取りやめることにした。東の魔王領から危機は去ったとはいえ、領民の気持ちを考えれば長期間に渡って留守にするわけにもいかない。
代わりに、週末には日帰りで人間界に行くようにしている。本音を言えば向こうに泊まりたいが、贅沢ばかり言ってられない。完全に渡航が禁止されなかっただけでもありがたいことだ。
執務室にこもってそんなことを考えていると、扉が控えめにノックされた。
「入っていいぞ」
確かめるまでもなく、そのノックが誰のものかは分かる。
俺が入室を許可すると、扉から黄金色の髪をなびかせる翡翠眼の少女――いや、女性が顔をのぞかせた。
「こんにちは。お仕事中に失礼します」
翡翠眼の女性――オリビアは扉を閉めると小さくお辞儀をする。
「あの……お仕事が終わってからでいいのですが、少し時間をいただけますか?」
「ああ。何なら今からでも大丈夫だぞ」
「本当ですか? それでしたらちょっとお話をしたいのですが……」
「いいだろう」
俺が立ち上がると彼女は「ありがとうございます」と言って微笑んだ。
「こんなところで話すのも何だし、外の空気を吸いに行こう」
「はい」
書類を片付けた俺はオリビアを連れ立って城の外に出た。
「それで、話って何だ?」
尋ねつつオリビアの横顔を見つめれば、彼女はためらうように表情を曇らせた。
「えっと……。その、答えたくなかったら無視してくれて構わないのですが……。あの戦い以来、元気がないですよね」
「……まあ、そうかもしれないな」
「よかったら理由を聞かせていただけませんか? ルナさんも心配していたので……」
一拍の間を置き、俺は息を吐いた。
「そうだな。特に隠すことでもないし、話してしまったほうが楽か」
ルナにはオリビアの口から伝えてもらえばいいだろう。
俺は幼馴染の顔を思い浮かべ、内なる思いを吐露した。
「悲し、かったんだ。昔と変わり果ててしまったルシェルを見て」
「【西の魔王】ですか?」
「ああ。あいつとは幼馴染でな。【南の魔王】ルシウス、それと今は亡き友と共によく遊んでいた」
儚くも美しい過去に思いを馳せ、俺は続ける。
「昔のあいつは、あんなに狂ったやつじゃなかったんだ。動植物を愛でる、物静かな優しい少女だった」
ふと気づけば、俺たちは西門の近くまで来ていた。
歩くのも億劫になってきたので、ちょうど手近にあったベンチに腰掛ける。
「誰よりも仲間のことを考え、誰よりも家族を想い、誰よりも命を尊重する少女だった。それなのに……。今のあいつは他人の命なんて紙屑のようにしか思っていない。あいつの目には、歪んだ光景しか映っていないんだ」
言い終えると、静寂が訪れる。
何となしに視線をさまよわせていると、どこからかカラスアゲハが飛んできて、俺の視線の先に止まったかと思えばまた飛び立って行った。
「時が経つに連れ、事物は変化していく。人の心だって移ろうのが当然だ。とはいえルシェルの豹変ぶりは度が過ぎる。だから悲しくて悲しくて……。ずっと、どうやったら彼女本来の心を取り戻せるのか考えていた」
「……優しいですね」
慈愛に満ちた笑みをたたえ、オリビアは俺の手をそっと握り締めた。
少し、悲哀の色も含まれているような気がする。
「他人のために心を痛めるなんてなかなかできることじゃないと思います。本当に優しい心を持っていて、相手のことを想える人でないと」
「…………俺はそんなにできた男じゃないさ。ただルシェルのことが心配なだけだ」
俺がそう言えば、ますますオリビアの笑みが深くなった。
「彼女のことが好きなんですね」
「大切な友人だからな」
「だとすれば、彼女の愛を受け止めてあげることが一番なんじゃないでしょうか」
俺から目線を外し、彼女は虚空を眺める。
「彼女はオラクさんと結ばれるために非道なことをしていると感じました。もしそうだとするならば、オラクさんと結ばれさえすれば、危険なことはしないように思います」
「どうだろう。仮に非道なことをやめたとしても、それだけでルシェル本来の心を取り戻したと言えるんだろうか」
「言え……ないかもしれません。でも愛を受け止めて、凍ってしまった心を時間をかけて溶かしていけば、本来の心を取り戻せるはずです」
「……そうかもしれないな」
オリビアの言うことが最善の行為なのだろう。
確かに説得力はある。
「けど、俺には無理だ。ルシェルの愛は重すぎる。俺一人じゃ受け止めきれない」
それだけじゃない。一番の問題は俺がルシェルのことを愛せないということだ。
友として、彼女のことは好きだ。だが一人の女性として愛せるかと問われれば、否と答えるほかない。
「なかなか簡単にはいきませんね」
立ち上がり、オリビアは小さなため息を漏らした。
「でも、オラクさんの元気がない理由だけでも分かってよかったです。わたしも一緒に――いえ。ライトも、ルナさんも、ハルバードさんも。皆で【西の魔王】ルシェルさんの心を取り戻す方法を考えましょう」
「ああ、そうだな。とてもありがたい」
一緒に考えてくれる仲間がいる。それだけで、俺の心は少し軽くなったような気がした。
「まずはルナさんに話しましょう。一番オラクさんのことを心配していましたから」
頷いて了承の意を示し、俺が立ち上がった瞬間のことだった。
上空から三つの人影が落下してきて、視線の先に着地した。
目映いオーラを纏ったその者たちには黒角が生えておらず、手の甲には聖なる刻印が施されている。
俺は一目でその者たちの正体を見破った。
「――勇者か」
呟けば、勇者たちと目線が合う。
彼らは一様に驚いた表情を浮かべた。
何だ? 俺を倒しに来たんじゃないのか?
一瞬相手の思惑を測り損ねたが、すぐに彼らは憎悪の目線を向けてきた。
「まさか【東の魔王】と巡り会えるとは。不幸中の幸い!」
「ここで始末してくれる!」
威勢よく叫んだ彼らは俺めがけて駆け出したが、俺と彼らとの間に三本の魔剣が降ってきて足を止めた。
遅れて彼らの背後に魔剣を握り締めた少年が現れる。
「大層な口を叩いてるけどさ」
金髪の少年――ライトが語りかけると勇者たちの肩がビクッと震える。
「僕一人から逃げ出すようなへっぴり腰が何言ってんの」
「ライト? どうしてお前が勇者たちのことを……?」
「やあオラク、お疲れさま。さっき街で勇者の集団を見つけてね。何をしてるのか問い詰めたら襲いかかってきたからさ。一人ずつ叩き潰してたところだよ。そこにいる三人で最後だ」
魔法陣を展開しながら彼は爽やかな笑みを浮かべる。
それが勇者たちには恐ろしかったようだ。彼らは完全に竦み上がってしまう。
「――“雷桜封殺陣”」
「ひぎぃっ!」
「ぐはっ!!」
「てっきり勇者は強いものかと思ってたけど、何てことはないね。“竜伐者”の手にかかればゴミ屑同然だ」
ライトが嘲笑するのと同時、数メートル先の空間が歪み、世界と世界を繋ぐ扉が出現した。中から東の魔王軍の四天王・セラフィスが満身創痍の身体を引きずってきた。
肩で息をするセラフィスは勇者を一瞥してから俺の前で膝を折る。
「魔王陛下、一大事である。諜報部隊・“魔王の糸”の人間界部隊が壊滅した」
「なっ……!?」
「さらにこれはライト殿とオリビアにも関係があることだ」
「何?」
「人間界で革命が起きた。聖魔導騎士団と勇者養成学園の大半、そして民衆の一部が蜂起し、エントポリス王国の王権を奪取した。その先頭に立っていたのが貴公らの長兄、アルベルト・ヒッグス・ドラゴニカだ」
「…………え。兄さんが? ……つまり……」
「貴公らの長兄が、新たな王だ」