Side-O 重なる影
「わたしの婚約者になってくれませんか」
「いやわけわからん」
***
オリビアの口からポツリと漏れた言葉に俺はあからさまに顔をしかめる。
だってまだ出会ったばかりの、それも魔族でもない者に結婚を申し込まれたんだぞ? 「はい喜んで」なんて言う奴がいるか? そもそも俺は恋愛だとか結婚だとかに興味ないし。
「実は今夜ドラゴニカ家の屋敷内で、王子を招いてのパーティーがあるんです。そこで父上はわたしの婚約のことを正式に発表しようとしていて……。ですからその前に、わたしには将来を誓いあった相手がいると父上に言えば、もしかしたら第二王子との婚約を破棄できるのではないか……と」
なるほど。何を思って婚約者になってくれなどと言ったのかと思ったが、そういうことか。それなら“一時的に”という条件を付けたのにも納得がいく。
「あなたは魔王というこの上ない高貴な方ですし、顔立ちも整っていますから父上も反対しないと思──」
「甘い」
だが、とてもじゃないが非現実的な策だ。
オリビアの考えの甘さを教えるため、俺は彼女の言葉を遮り指を立てた。
「……っ、甘い……ですか?」
「身分どうこう以前に、オリビア、君の種族は何だ?」
「人間です」
「で、俺は魔族。異種族間での結婚なんか、五大貴族ともあろう者が認めるはずがない」
まず、これが単純かつ一番の障害だ。異種族間で結ばれたという前例がないわけではないが、異種族との結婚は当人が良くても親類が異を唱えることが多いため、やはり厳しいものがある。それが魔族に明確に敵意を表している王国の貴族となれば、より一層難しくなるのは明らかだ。
「ならばあなたが魔族だということを隠せばなんとか……」
「隠してどうする? それこそどこの誰ともわからないような男に君の父親が娘を渡すとは思えない」
「……」
次々と甘い点を指摘され、オリビアの表情が曇っていく。美しい顔が歪められていくのを眺めるのはあまりいい気分ではないが、俺は構わず続ける。
「ドラゴニカ家は政略結婚で権力を拡大してきたと言ったな。既に貴族の中でも絶大な権力を誇るドラゴニカ家が、さらに権力を手に入れるには王族と血縁関係を結ぶ他ない。……君の父親がしようとしているように。他国の王族でも連れてこない限り、王子との結婚を覆すのは厳しいだろう」
「そう……ですよね」
「そして最後に、俺が結婚したくない」
流石にこの答えは予想していたようでオリビアの表情に特に変化は見られなかったが、ほんの小さなため息を漏らした。
まあ、これだけ強く言えば俺の気持ちもわかってもらえただろう。一時的にとはいえ彼女の婚約者になったら絶対面倒な事になる。それだけは勘弁してほしいので、彼女の申し出は受け入れられない。
けど、少し強く言い過ぎたかもしれない。オリビアが傷ついてなければいいけど。いや、仮に傷ついても、それで嫌われるなら万々歳だが……。城を去ってくれるのが一番だし。
でも家で窮屈な思いをしている少女に魔界でもそんな思いをさせるのは……な。
「やっぱりだめですよね……。すみません、こんなお願いをしてしまって」
案の定、コーヒーの液面を見つめながら悲しみの色が混ざった声で謝られてしまった。
こうなったら、少し羽を伸ばしてもらうしかないかね。
「こちらこそ、強く言い過ぎて悪かった。お詫びに魔界の様子……魔族の生活がどのようなものか、この広大な城内を案内して見せてあげよう」
「え……、そ、そんな! 申し訳ないですよ! 助けていただいた上に多忙なあなたの手を煩わせてしまうだなんて!」
「気にすることはないさ。魔王なんて大した仕事をしてるわけじゃない。ただ玉座に偉そうに座ってればいいんだ。時間ならいくらでもある」
流石に今のは誇張だが、暇な役職だというのは本当だ。優秀な文官が多い魔王軍は、上司の俺にまで仕事が回ってくることはほとんどない。ゆえに散歩したりコーヒーを嗜んだりすることができるのだ。
城を案内するのが億劫だという気持ちはあるけれど、この際俺の気持ちは置いておこう。
いやでもやっぱりやめておくか……?
「……本当によろしいのですか?」
「いいとも」
あ、つい勢いでOKしてしまった。まあいいか。
「あの……では、お言葉に甘えて……お願いします」
ゆっくり立ち上がるオリビアに微笑み、彼女の頭に触れる。
「まずは人間であることを隠すために、幻術をかけよう。黒角が生えてるように見せなければ」
そして魔力を注ぐと、魔族としては平均並の大きさの黒角が現れた。
「すごい! これなら魔界を歩いていても襲われる心配はありませんね!」
「どうだろうかね。探知能力に長けている奴には見破られるかもしれない」
だだ仮に襲われたとしても、中枢魔法協会のランクA協会員であるオリビアならば大抵の魔族は返り討ちにできるだろう。魔王軍の幹部格に勝てるかどうかは微妙なところだが。
部屋の片隅にある鏡越しに、黒角の生えた己の姿を見て興奮するオリビアを横目に、俺はポケットから水晶玉を取り出し耳に当てた。
『ハルバード、ちょっといいか?』
脳内で秘書の名を呼ぶと、数秒の沈黙の後、ザザッという雑音が響いた。
『はい、何でございましょう』
『オリビアを案内するから、城内にかけている反幻術結界の効果を緩めてほしい。彼女に幻術をかけたんだが、見破られると困る』
『結界の効果を? しかし……話は伺っておりましたが、安全保障上、それは危険なのではありませぬか?』
『現状城の敷地内に不審な人物がいないのであれば、結界を展開するのは城壁外のみで十分だろう』
『そうですな……。……了解致しました。探知魔法を展開して異常がないのを確認してからになりますが、サタン様のおっしゃる通りに致します』
『悪いな』
ハルバードに指示を出し、水晶玉を耳から離す。
普段だったらこんな簡単に了承してくれなかった。この部屋での会話を聞いていたからこそ、オリビアの気持ちも汲み取って許可してくれたのだろう。
そう、遮音性に優れるこの部屋だが、魔王の権限でこの部屋の会話をある部屋で盗聴することができるのだ。実はオリビアを部屋に入れる直前、ハルバードに命じて彼にはこの部屋での会話を聞いてもらっていた。というのも会話の記録をとることで、貴重な人間界についての情報をきっちり保管しておきたかったのだ。
オリビアを城に招き入れたのは何も同情心からだけではない。実益面でも有益だと思ったからだ。
「オラクさん?」
ふと面を上げると、心配そうにこちらを見つめるオリビアの顔があった。
「ん? どうした?」
「呼んでも返事がなかったので大丈夫かなと思ったのですが……」
「ああ、大丈夫だ。ハルバードと念話をしてたんだ」
「そうですか、安心しました」
「何がだよ」という言葉は、無意識のうちに飲み込まれた。なぜなら、ホッと息を吐いて笑ったオリビアの表情が、俺の脳に焼き付いて離れない『誰か』の表情に重なって見えたから。
……似ているはずがない。親戚でもないのに、そもそも種族が違うのに、似ているだなんて……絶対にありえない。頭では分かっている。分かっているが……。
ダメだ、このことは忘れよう。
忌まわしい過去の記憶が呼び覚まされそうになるのを無理やり抑え、笑顔のお面を貼る。内面を覗かれないようコーヒーを飲んで心を落ち着かせ、一つ深呼吸をした。
「よし、行くか」
カップを重ねて、扉を開ける。広い廊下には何人もの魔族がいたが、こそこそする必要はない。今オリビアは魔族の姿をしているのだから。面倒な事にはならないはず。
オリビアの手を引き外に出ると、相変わらずの曇天模様に少し心が軽くなった。もうすぐで夜が来る。鬱陶しい日の光がなくなれば、不安な気持ちも消えるだろう。
……不安? なんだ不安って。俺は何を不安に思っている? まあいい。今はオリビアをエスコートするのに集中しよう。
心にポツリと落とされた黒い影を振り払うように、俺はやや強引にオリビアの手を引き歩き始めた。
この時、俺は気が付かなかった。オリビアから感じられる魔力に、ほんの少し、『誰か』と同じ香りが混ざっていたことに。