最終話
「これが噂の畑か」
「はい、魔王様」
額から見事な角が生えた、黒いマントを羽織った目つきの鋭い男がすっと目を細める。
その隣には角の生えた男より一回り大きな体躯の男がいる。背中から骨格だけの翼が生えている。
二人とも黒一色で揃えているが、魔王と呼ばれた男の服には至る所に精密な刺繍が施されており、一目で高級品だというのが伝わってくる。
「獣人の国や森の民に手こずり、ようやくここにこられたが……噂以上だな」
「はっ。元左足大将軍マゲリは戦死。率いていた二十指将軍のうち四将軍が討ち取られております」
「それも、畑にか」
他の国への戦争に懸かりきりだったとはいえ、情報は得ていた。魔王としても気にはなっていたのだが、直接足を運ぶ余裕がなく、数年たちようやくこうして訪れることが叶った。
「そのようでございます。私も正直耳を疑ったのですが、どうやら畑に宿った何かが、我が軍を壊滅まで追い込み、その後、ここに居座ったようです」
「そして、こうやって、大量の農作物を実らせているわけか」
魔王の視線の先には色とりどりの野菜を実らせた、巨大な農地が広がっている。
季節の野菜はもちろんのこと、この時期では決して実らぬはずの野菜も、当たり前の様に豊潤な実を湛えている。
その背後には人間の国と繋がっている道が谷に架かっているのだが、今は巨大な壁に遮られ、誰も通ることができない。
「以前、我が口にした果実は、ここの物だったな」
「はっ、そうでございます。新しき左足大将軍の地位を得た、クョエコテクからの献上品でした」
「あれは美味かった。今でも思い出すだけで、唾が湧き出るほどにな」
「それはようございました」
「確か、クョエコテクとその下僕たちは、唯一この畑に入る権利があるのだったか」
「はい。左足大将軍以外が足を踏み入れると、問答無用で畑が襲い掛かってきますので」
その言葉に魔王は顔をしかめている。文章の奇妙さに思わずそうなってしまったようだ。
だが、その表現は間違いではない。
誰も手入れもしていないのに、どんな時でも豊作でたわわな果実と新鮮な野菜が実る畑。魔物たちがその野菜を手に入れようと足を踏み入れると、畑の土に呑み込まれ肥やしとされてしまう。
嘘のような、冗談のような話だが、右腕大将軍が下らない嘘を吐くことが無いことを知っているだけに、魔王としては表情を歪めるしかなかった。
「この広大な農園のおかげで我が国が助かったのは事実か。国中に広まった干ばつに強く、陽が殆ど射さない土地にでも平然と実を成す、ここの種子のおかげで、この国は他国の利益を奪わずとも生きていけるようになった」
「はい。その作物を普及した功績を認め、クョエコテクが左足大将軍に抜擢されたわけです」
「そうだったな」
魔王の視線の先には、地味な色合いの長袖長ズボンを着込んだ、黒髪の女性――クョエコテクがいた。
農作業に没頭する彼女の周りには、畑には似合わないタキシードを着込んだ男たちが10名同じように、畑仕事に励んでいる。
「視察はもうよいか。あ奴の邪魔をするのは無粋だな」
「そうですね」
魔王がマントを翻すと、二人の姿がその場から掻き消えた。
「畑よ。今日も沢山の野菜、感謝するぞ。お主のおかげで、魔物の国は豊かになり、争いも少なくなった。結果、お主が命を賭けて守った防衛都市への進軍も取り止められた。大した畑じゃよ」
クョエコテクは目に涙を湛え、健気に微笑むと、そっと畑に手を触れる。
あの日、自分たちが逃がされた事を知ったクョエコテクは、畑の想いを受け取り戦場に戻ることなく、故郷への帰路についた。
そして、畑から託された種を撒き、二年も経たぬ間に故郷は農作物と笑顔の溢れる、活気のある町へと変貌を遂げる。
戦場から逃げ去り、裏切ったことにより罰せられる覚悟をしていた彼女だったが、数か月過ぎてもお咎めはなく、魔王からの使者が訪れることすらなかった。
流石に不信感を覚えたクョエコテクたちは、畑たちと激戦を繰り広げた場所へ足を運んだ。するとそこには、魔物の国とは思えぬ光景が広がっていた。
それから、彼女は畑の意識がなくなっている事実を知ることとなる。このような姿になっても人間の国を守り、野菜を育てている。その意志に心打たれ、この場に留まり野菜の世話をすることにしたのだ。
貧しい村や町に野菜を無料で提供し、種子や苗を周辺に広め、数年の内にこの一帯は農村として有名となる。
その功績を評価され、昔あれ程望んでいた大将軍の地位を思いもしなかった流れで手に入れた。
だが、その時の様子を知る側近は、あまり嬉しそうではなかったと後に語っている。
「畑よ、我の声が聞こえておるかえ……あの頃の様に我をからかったりはせんのか……」
過去を思い出し、俯いたまま動けなくなったクョエコテクの耳に、微かにだがある声が届いた。
「今のは……」
「クワッ、クワー」
「黒八咫か!」
頭上から聞こえる鳥の羽ばたきと、懐かしい鳴き声に顔を上げると、そこには黒く輝く翼を羽ばたかせる、一匹の雄々しいキリセ――黒八咫がいた。
ゆっくりと舞い降りた黒八咫にクョエコテクが駆け寄ると、三つの目を細め「クワァー」と挨拶代わりに一鳴きする。
「再会は嬉しいのじゃが、どうやってこの場にきおった? あの壁は流石にお主でも越えられぬじゃろうて」
左足大将軍が残した土の壁は、あの戦いからずっとその場に佇んでいる。
あまりに大きく分厚い壁故に、誰も越えることができず、壁に穴を開けるには畑を横切らなくてはならない為、誰も手出しができないでいる。
「クワ、クワッ」
黒八咫は鳴きながら、羽を壁へと向けた。その動きに釣られてクョエコテクが視線を向けると、壁にぽっかりと大きな穴が開いていた。
「はあっ? い、いつの間に!」
慌てふためくクョエコテクに追撃する様に、穴から姿を現したのは見事な一本角に負けない体躯の白いウナスス――ボタンだった。
そのボタンが引く荷台の御者席にいるのは、白銀の鎧を着込んだ、精悍な顔つきでありながらも、どこか気品を感じさせる女性だった。手甲で覆われた手は荷台の縁を力強く握っている。
荷台には薄い桃色の裾が大きく広がったドレスを着込んだ、絵画から現れたかのような、整いすぎた容姿の女性。
そして、その両脇から挟むように、執事とメイドが並んで座っている。
「おや、クョエコテク様。ご機嫌麗しゅう」
「お主は確か、防衛都市の領主か」
「はい、ジェシカです。この農園は守護者さんですね」
「ああ、間違いない。そもそも、何故、お主らがここにおるのじゃ」
あまりにも急な展開にクョエコテクは戸惑いを隠せずにいたが、どうにか表面上は冷静さを取り繕っていた。
「守護者さんに会いに来たのです」
「精力増強野菜が尽きましてな」
「ボタンちゃんたちが元気ないから、心配で、心配で!」
相変わらずの執事とメイドの言動に、クョエコテクが苦笑いを浮かべている。
「それは理解したが。どうやってあの土の壁に穴をあけたのじゃ。うちの下僕の土操作すら跳ね除けたというのに」
「この土壁には守護者さんの強い想いが宿っていますからね。誰も砂の一粒すら動かせませんよ」
ジェシカの言葉に大きく頷くクョエコテクだったが、その言葉の矛盾に気づき即座に問いかけた。
「ならば、どうやってお主らは、この壁に穴をあけたのじゃ」
「答えは、この土の球ですよ」
ジェシカとは違う、若い女性の澄んだ声が畑に満ちる。
それほど大きな声量ではないというのに、耳に心にすとんと落ちてくるような落ち着きが感じられる声だった。
その声に聞き覚えのなかったクョエコテクが視線を向けると、そこには白のロングコートを着込んだ、同性だというのに思わず見とれてしまう完成された美があった。
細くなだらかな曲線を描いた眉。その下には黒い水晶を埋め込んだかのような輝きを放つ瞳。優しい笑みを湛えた唇。
初めて見る顔なのだが、何処か懐かしくも感じる不思議な印象を抱かせる女性。クョエコテクは思わずまじまじと見つめてしまっていた。
「お久しぶりです、クョエコテク様。キコユです」
「なんと! おおきゅうなったな!」
違和感と懐かしさが同居する女性に納得がいったようで、頭の先からつま先まで遠慮のない視線を飛ばしている。
「雪精人は18を迎えると急成長しますので。それで、話を戻しても宜しいでしょうか」
「おう、そうじゃった。すまぬな」
「いえいえ。土壁に穴を開けられたのは、この土の球……元々はボタンさんの土鎧です。あの日、強制的に離脱させられた後にボタンさんの土鎧は、このような丸い土の塊になってしまいました。球からは微かにですが畑さんの力が感じられたのですが、それ以上は何の変化もなく、ただ日々だけが過ぎていきました」
そう言って顔を伏せるキコユの肩に、そっとハヤチとジェシカが手を添えた。
二人に勇気づけられたのか、勢いよく顔を上げたキコユの顔には悲しみは微塵も存在していない。それどころか、少し目元が嬉しそうに緩んでいるように見えた。
「雪精人は成人を迎えると、一気に魔力が上昇するのですが。成人を迎えたその日以来、自分に何かできないかと己を鍛え続け、ある日、もう一度土の球を握ってみると、微かに声が聞こえたのです。そう、畑さんの」
まるで最愛の人でも抱いているかのように、優しく土の球を撫でるキコユの顔は、ぞっとするほど美しかった。
「畑さんは何かあった時の予備として、土鎧に記憶を保存していたそうです。ですが、この土の球単体では土を操作する力もなく、この声も直ぐに消えてしまうと。本体と合流することで本来の自分を取り戻せるとのことでした。そこで、我々は防衛都市を出発して、ここに辿り着いたという訳です」
「つまり、畑が元に戻るということか!」
胸ぐらをつかむ勢いで顔を接近させたクョエコテクに向かい、キコユは満面の笑みを返し「はい!」と元気よく答えた。
「ならば、善は急げと申す! はよう!」
クョエコテクに急かされるまでもなく、ここにいる誰もが畑との再会を夢見てきた。
土の球を抱きしめたまま、畑の中心部へ移動すると、キコユを取り囲むように皆が並んでいる。
「では、いきます!」
キコユが土の球を手放すと、地面へと落下し、まるで水に放り込んだかの様に土の球はすっと沈んでいった。
そのまま、誰も言葉を発することなく時間だけが過ぎていく。
一分、二分、五分と。
流石に不安になってきた面々が誰ともなく顔を見合わせると――
ドンドンドドン ドンドンドドン ドドンドンドン!
畑の至る所から太鼓の音が響いてきた。驚く彼女たちが辺りを見回すと、畑の一角から巨大な土の板が出現したではないか。
その土板には大きくこう書き込まれていた。
『畑、大復活! 太鼓の準備に時間がかかったよ!』
呆気にとられている面々に太鼓の音が近づいてきて、気が付くと周囲に土の腕が何本も現れていた。左腕は太鼓を抱え込み、右腕は華麗な手さばきで太鼓のばちを振るっている。
涙目の女性陣が薄い笑みを口元に浮かべたまま、一番大きな土の腕を睨みつけている。その迫力に押されて、その腕を残して他の腕が地中へと沈んでいった。
まるで周囲を見回すかのように、手を左右に激しく振っていた土の腕だったが、何かを思いついたらしく、手をポンと打ち鳴らす。
土板に注目する様に指差すと、板に新たな文字が浮かび上がった。
『ただいま、みんな!』
その場にいた動物を含めた全員が顔を見合わせると、破顔して大きく息を吸った。
「おかえりなさい!」「ブフォーッ!」「クカーッ!」




