八話 メイド、モウダーの場合
本当に伝説の畑があるとは思いもしなかった。それが正直な感想だ。
畑の存在にも驚かされたが、それ以上に畑の守護者である土の腕には驚かされた。
でもまあ、そんなことは動物たちの存在でどうでも良くなったけど!
あの、凛々しくも美しく、少しコミカルな動きが可愛らしいキリセも好みだが、エシグたちは駄目だ……あの愛らしい瞳に曲線的な丸みを帯びた身体。
た、たまらん……。今すぐにでも抱きかかえて、お腹に顔を埋めてぐりぐりしたい!
でも、それをやるとステック様が――
「モウダー。お言葉に甘えて、温泉をいただいてはどうですか?」
くっ、余計な事をさせないように先手を打たれた。
日頃はちょっと抜けたところもある人なのだが、この人だけは本気で怒らせてはいけない。これは、旦那様の元で数年メイドを勤めて学んだこと。
見た目の柔和な笑みを信じてはいけない。
「温泉ですか」
畑の隅に木の板で覆われた一帯があるが、そこが温泉なのだとは理解できる。湯気も立ち昇っているから間違いない。
伝説の畑で得体の知れない守護者と呼ばれている土の腕がいる状況で、裸体になって湯船に浸かるというのは相当度胸がいる。
「変態に覗かれる可能性があるので、遠慮させていただきます」
「これは異なことを。ここには守護者様と動物しか、いませんぞ」
「いえ、もう一人、危険人物が存在しますので」
「おや、そんな人、見当たりませんが。守護者様のお誘いを断っては失礼にあたりますよ」
くっ、入りたくないので遠回しに非難して矛先を変えたというのに、全く動じない。
これは入れと言う命令か。昔、凄腕の暗殺者と対峙した時に感じた、凍り付くような視線よりも冷たい目。
大人しく従っておこう。
「では、入らせていただきます。覗き行為を実行された場合、短い老後が更に短縮されますよ」
「はっはっは。紳士である私がそんなことをするわけが、ありませんな……凹凸のない身体を見て何が楽しいのやら……」
ボソッと呟いた言葉が聞こえたので、殺意を込めて睨みつけたが、さらっと受け流されてしまう。現役の傭兵時代は一睨みで、同僚たちを震えあがらせたものだが……この人は底が知れない。
板で囲まれた手作り感あふれる温泉に辿り着くと、木の壁に扉が備え付けられている。
ここを開けたらいいのか。
一応、警戒はしておこう。土の腕が本当に安全な相手だという保証は何もないのだから。
だが、私はおそらく安全だろうと考えている。それは私の加護『察知』が危険性を感じていないからだ。この加護は相手の様子から何が起きるかを事前に察知する力だ。
微妙な能力だと思われがちだが、実は結構使える加護である。相手の心理を読んだり、危険を回避するのに適している。その『察知』が今のところ反応していない。
おそらく、ステック様は私をあえて無防備な状態にさせて、相手がどうでるのか様子を見るつもりなのだろう。
完全におとり役だが、温泉は好きなので何もないなら役得だ。ここは、開き直って温泉を楽しませてもらおうか。
ドアノブを捻って開けると、三、四人は悠々と入れそうな温泉がある。壁際には木製の棚があって中に籠が置かれている。ここに脱いだ服を入れろということだろうか。結構凝っている。
「こうなったら楽しんだもの勝ちよ」
背負い袋を板が敷かれた床に置き、中から予備のメイド服を出し、着替えの準備もしておく。周囲は板で囲まれていて高さも私の身長を軽く超えるぐらいあるので、簡単に覗くことはできないだろう。
ああ言ったが、ステック様が温泉を覗くことは無い。あの人はいい加減なところもあり口も悪いが、生真面目なところがある。
「あの美しい畑が見られないのは残念だけど、夜空が綺麗」
露天に入ることを迷っている間に、夜の帳が下りている。
冬は日が落ちるのが本当に早い。かなり大気も冷えてきているので、そろそろ温泉に入らせてもらおうか。
脱いだ服を籠に入れて、そっと爪先を湯船へと滑り込ます。
ちょっと熱いけど、ゆっくりならせば入れる。
湯船の傍に置かれている桶を手に取り、少しずつ体に掛けて慣らそうとした、その時――カコンと物音がした。
何? 今のは壁の方からした。まさか、ステック様が覗きに来たというの?
歳を取り過ぎて欲望を抑制する力が衰えてきたのか。哀れな。
桶をいつでも投擲できるように構え、音がした付近へ目を凝らす。
壁の下の方が……開いた?
大人が一人通れるぐらいの穴が隠してあったのか。まさか、温泉は罠で無防備な女性を襲う為に作られた設備だと……だと……。
「ひっ、き、き、きゃあああああああっ! 白いウナススぅぅぅぅぅ!」
何で、白いウナススが穴から現れたの!?
口に木桶の取っ手をくわえて何しているのかしら。ああ、でも、綺麗なウナスス。はああああんっ、大きくてモフモフしがいがありそうっ!
え、あの木桶には水が満載されているみたい。ん、それを温泉に流し込んだ……もしかして、温度調整してくれたの? 何て賢い子!
「あ、ありがとう。温度も丁度良くなったわ」
手を入れると、程よい感じになっている。お礼を言うとウナススが大きく一度頷いてくれた。本当に守護者の僕は言葉がわかるのか。
なら、もしかして。
「よかったら、貴方も一緒に入らない?」
ダメで元々誘ってみたのだが。
あ、首を傾げている?
ここはもう一押しすれば!
「ほら、裸の付き合いって大切だと思うの。ここはお互いを良く知る為にも、一緒に温泉に入るっていうのはありだと思うの」
まあ、私が嬉しいだけだけど!
白いウナススは何を思ったのか、夜空を見上げるような仕草をしている。
あれ、何で、上を見て口を大きく開けているの。
「ブフォオオッ!」
嘶き!? え、何か怒らすようなことをしたのかっ?
ただ、純粋に一緒に温泉に浸かって、裸で抱き付きたかっただけなのに!
あっ、これは足音?
勢いよく駆けてくる足音が徐々に近くに――
「どうしましたか、モウダー何ご――」
壁から顔を覗かしたステック様には桶を投げつけておいた。
顔面に命中して落ちていったように見えたが、あれは確実に手で塞いでいる。そういう人だ。
ステック様はどうでもいいが、白いウナススには謝っておかないと。
「ごめんなさい。無理に混浴を迫って……へぅ?」
ど、どういうことなの。う、嘘でしょ。こんなことあり得ない。
ウナススが出てきた穴から、次々と動物たちがっ!
あの漆黒のキリセも、仲の良い二匹のエシグも一緒に現れるなんて。ここは極楽なのかしら。まさか、一緒に入ってくれると……うはあああああああああっ!
何、何、この可愛らしい生き物は! これって、エシグの子供よね!
はああああああんっ、つぶらな瞳に手のひらサイズの大きさ!
だ、だめ、この興奮が抑え切れないいいっ!
「み、みんな、一緒に入りましょう! さあ、一緒に」
温泉に私が入ると、次々と動物たちが入ってきた!
ここが楽園、いえ、天国なのね!
私はのぼせ上がる寸前まで、動物たちとの温泉を心行くまで楽しみつくした。
「随分、お楽しみになられたようですね」
「ええ、至福の時でした」
さすがに抱き付くのは自重したが、エシグの子供も触らせてもらったし、ウナススとキリセも撫でさせてもらえた。
ああもう、あの夢の時間をもう一度。
「それ程、素晴らしい温泉なのですか。あとで、私もご相伴にあずかることにしましょう」
「それがいいです」
体の芯まで温まった状態で、私は今、畑の一角に置かれた椅子に座っている。
外気が寒いので体が直ぐに冷えそうだが、どういう仕組みかは不明だが足元の地面が温かく、寒さを感じさせない。
木の板を置いただけの素朴な机の上には、煌々と明かりをともす道具が置かれている。
これは昼間に光を溜めて夜に放出するという、集光石を加工した灯りのようだ。結構貴重な品なのだが、守護者様の所有物らしい。
「んー、いい香りですね」
ステック執事が目を閉じて、胸いっぱいに湯気を吸い込んでいる。
私の目の前には大きな土鍋が置かれ、その中には熱々の具材がふんだんに詰め込まれた、スープがある。
ざく切りにされたヒケシウと、半円の形をした半透明な物体は……ヂウカワだろうか。
それにヌワズワや茸も大量に投入されている。鶏肉も入っているようだが、まさか、あのキリセを捌いた……あ、いた。良かったー。
この独特の匂いは、ヌワヌケとスャエギの葉の香りを強くしたような感じだ。あの、根を入れたということなのだろう。
「料理の手順は全て見学させてもらいましたので、食材を持ちかえれば直ぐにでも作れますよ」
私が温泉で楽しんでいる間にステック様は料理を学んでいたのか。
旦那様は贅沢を好まない人なので、使用人も最低限で一応料理人はいるのだが、臨時でステック様が作ることが多々ある。
その腕は確かなので、期待しておこう。
「では、温かいうちにいただきましょうか」
「はい」
正直、これ以上、耐えられる自信はなかった。
今までに体験したことのない香りを胸に吸い込むだけで、全身に軽い震えが発生している。体がこの料理がとんでもないものだと理解し、歓喜に震えているかのようだ。
器によそってもらった具だくさんのスープを持ち上げる。
そして、大きめの匙でヒケシウとヂウカワをすくい上げ、スープと一緒に口内へと放り込んだ。
「はうっ!」
このシャキシャキとした歯ごたえを残しながらも、完璧に火の通ったヒケシウから溢れ出る旨味は!
ヂウカワにもたっぷりとスープがしみ込み、噛めば中からエキスが飛び出してくる!
味付けは塩だけだと思うけど、この少しの辛みと鼻を突き抜けるような独特の匂いは、いったい何……。
「凝った味付けではないというのに、この味わい。食材が素晴らしいのは言うまでもないですが、それだけではありませんね。調味料は塩のみで、このコクと独特な風味がでるものなのでしょうか。はっ、あの途中で流し込んだ、ヌワヌケとスャエギの根をすりおろしたモノが、ここまで料理を昇華させたというのですか」
ステック様が驚いて目を見開くところを始めてみた。
その解説に納得しながら、私は現在進行形で料理を食べるのに必死だ。
この茸も美味しい、あっ、見たことない根菜や芋もスープがしみ込んで、至高の味に。
はああああっ、こんなもの食べたら、ダメになるぅ。
これからの食事が味気ないものに感じてしまうわあああああぁ。
「いけません、これはいけませんな。これは人を魅了し堕落させる味です。ああ、いけません、いけませんぞ」
わかります、わかります、ステック様。
手が全く止まらない。ああ、それに、体が熱い。何故かわからないけど、体が火照ってきている。足元の地面が温まってはいるが、ここは屋外。寒い筈なのに体がかっかしてきて、メイド服を脱ぎ捨てて、下着になりたいと思うぐらい体が熱い。
「滾る、滾りますよ! 体がまるで若返ったかのような、この熱さはっ」
気が付けば、執事服の上着を脱ぎ捨てている。
顔が上気して、体からは湯気が昇っている。私も全身が汗ばんでいる状態だ。
もう、初老に足を踏み入れている筈のステック様の肌が、妙に艶々してきたのは気のせいだろうか。そういう私も、肌がプルンプルンしてきた気がする。
「くはああああああっ。本当に美味でした。ふうううぅ」
「ああ、今日は何て良い日なのだろう」
食べ終わった私とステック様は椅子の背もたれに全身を預け、脱力している。
結構な量があったにもかかわらず、二人でスープの一滴も残さず完食した。
「ブフォ、ブフォ」
「クワッカー」
えっ、ウナススが頭に盆を乗せて歩み寄ってきた。そこには深さのある陶器のコップがあり、そこには橙色の液体がなみなみと注がれていた。
「あっ、いい香り。食後の果汁なの?」
漆黒のキリセが三本足を器用に使い、我々の前にコップを置くと小さく頷いた。
体が温まり汗ばんだ状態で、食後に冷えた果汁を持ってくるなんて、至れり尽くせりね。
では、遠慮なく、いただきます。
そう、私は気の抜けた状態で油断をしていた。
ふやけきった体へ止めとばかりに冷えた果汁。それがこの畑で採れた果実であったら――全身に浸透する幸福感に私の精神は、飛んだ。




