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蝶の首輪  作者: ツキジ
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蝶の首輪 前編

「橘、あげは蝶を捕まえておいで」


 夕霧がそういったので、わたしは虫取り網を片手に、虫かごを吊り下げて蒸すような庭先へ出なければならなかった。お天道様が頂点に差し掛かったこの時刻、虫でさえうろつくことはないというのに、首筋から汗を流して庭木を掻き分けるわたしは滑稽なことだろう。屋敷の庭を一回りしたが、鳴き始めの蝉の声が煩いだけで、どうにも蝶の姿は見えない。


「夕霧。蝶はいないみたいだぞ」

「ならば、屋敷の外出を許しましょう。おいでなさい」


 三枚羽の扇風機の前には大きな氷が金盥にはいっており、ひやりとした風を受けて涼んでいる夕霧が手招きもせず言葉だけで呼ぶ。日光の下から座敷を覗くとその暗さに毎度驚く。二十畳の広さの座敷は明かりひとつなく、ひんやりとした薄暗い空間がぽかりと空いているように見える。その座敷の縁側より、日の当たらない場所で過ごすことを、夕霧は初夏から晩秋にかけての日課としていた。

縁側から中へ入って膝でにじみよれば、夕霧は脇息で支えていた体を漫然と起こす。白い顔には汗ひとつ浮いておらず、すっと通った鼻梁は花の香りしか嗅ぎ分けないような優雅さだ。その年齢にしては細い腕を持ち上げ、わたしの首へ手を伸ばした。そこにはぐるりと縄が一周している。首輪だ。手綱は胃の下までぶら下がっており、初めは鬱陶しかったが今は馴れた。


 汗で濡れた首輪は解くことが難しい。力加減をし、慎重に縄を手繰り寄せる必要がある。しかし、夕霧はするりと縄を解き、それを丸めて脇息の側においた。そして、何をいうまでもなく涼しい顔で脇息に持たれ、暇つぶしにと書庫から持ち出した文庫をいたずらに開いて目を落とした。夕霧の眼はすこぶる悪い。字を追うのにも人差し指分の距離でなければならなかった。夕霧の母は暗い場所に篭って読書をするからだと我が子を諌めたが、本人は意に介さず、暗い場所を好んで身を横たえていた。おかげで色白だった肌がより白く不健康に見える。


「遅くならないようにしなさい。杜であれば蝶はいるでしょう」

「わかった。あげは蝶でいいんだな?」

「あげは蝶がいいのですよ。他の蝶は逃がしておやり」


 夕霧の言葉に頷いて、首の開放感に喉元をさすりながら、縁側からまた庭へ降りる。雪駄をじゃりじゃりとならし、井戸のある裏庭に移って、閂が外されたままの裏口から出る。

 裏は小径となっており、それぞれの屋敷の裏口や裏庭に面している。この区域は井という漢字のようになっており、真中に夕霧の住む屋敷がある。四方を屋敷に囲まれているので、風通りは些かよろしくない。盆の時分など、蒸し釜に似た暑さが屋敷に篭り、倒れてしまう手伝いの女までいた。時代錯誤も甚だしい一画だと思いはすれ、幼いときより住んでいるので当たり前のように受け入れてしまっている。


 まず、裏から出た小径を左手にまっすぐ進むと、ほどよくひなびた屋敷の生垣に当たる。一見すると突き当たりに見えるが、道はさらに右へと折れて続く。両脇に面する裏庭からこんもりと茂った枝葉が小径を覆う。その下をくぐる際に、一日で巣をはりなおしてしまう蜘蛛の巣を虫取り網で払う。蜘蛛はゆらゆらと体を揺らして樹上へ隠れた。少し行くと道は手前と左手に別れるので、左へ行く。石段が十数段続くのを軽快にあがると、井の字に並んだ屋敷の棟が見える。夕霧の住む屋敷が一番大きく立派だったが、面している道という道はすべて細く、車一台も通らない。法律が変ったとかで、車両の通行できない道に面していない土地に新たな家屋を建築できないらしい。そんなことを家のものが言っていた。

 噴出した汗のおかげで服が背中に張り付いて気持ち悪い。が、石段を登るとそこはちょっとした高台で、しかも鬱蒼と暗い林のおかげか涼しかった。


「杜には蝶がいるっていっていたな……さて、杜のどこにいるんだか」


 杜とはこの高台を指す。そしてこの高台は神社だった。夕霧が言うからにはあげは蝶はいるのだろうし、きっと他の蝶もいるのだろう。逃がしておやりと興味のない様子で言ったのだから。わたしは腹が見えるのも構わずに裾で首筋と生え際から噴出す汗をぬぐった。手ぬぐいでも持ってきたら良かったが、今さらであろう。石段は小奇麗に掃除されてはいるものの、本道とは違うわき道なので、注意しないと気づかない。本道へと出たわたしは、そのまま神社の方へ向かい、鳥居をくぐってまた道からそれた。歩きなれた境内の中で、水場を目指す。いつも地面がぬかるみ、水溜りができる場所が奥になるのだ。蝶は水辺に集まるものだと知っていたし、案の定、そこには数匹の蝶が羽を開いたり閉じたりして水を吸っていた。

 そっと近づいて虫取り網を静かに翳す。振り下げるときは一気にだ。網にかかった蝶の羽を破らないように慎重に取り出し、籠の中へそっと入れる。


「……黒と黄色のアゲハ蝶か。ふん、夕霧好みだな」


 だからアゲハ蝶を捕まえにいけといったのだろう。相変わらず悪趣味で、わたしには理解できそうにない。指先についた燐粉をシャツで拭って、まだ戯れている蝶に背を向けて水場をあとにする。そのまま本道に出ると、白い浴衣に下駄を履いた少女が立っていた。黒々とした髪には艶がなく、ただ一筋二筋と風に吹かれてなびいている。夕霧より白い頬はふっくらとしており、紅をさしたように赤い唇はむっつりと引き結ばれていた。


「橘、お前はまた蝶々を捕まえたのじゃろう。煩くてかなわない」

「望まれたのだからしょうがないだろう。なんだ、朝霧は不服か?」

「さよう。我は不満じゃ」

「だけどな、わたしはこの蝶を放つわけにはいかん。夕霧が待っているしな」

「双子の兄か。ならば仕方ないのう。仕方ないが、蝶々の魂の擦れが耳にあたるのじゃ。お前が持ち帰った蝶々どもは、それはそれは酷い声をあげて息絶えるのじゃ。お前は聞いたことがないかもしれないが。まったく」


 少女は首を振って、悪趣味もほどほどにせいと背を向けた。彼女の背中を目で追っていくと、神社の賽銭箱を周り、本尊が安置されているという神殿への扉を押し開いた。中は暗くてよく見えないが、人が住まえるほどの広さだろう。振り返ることなく、彼女は暗がりに戻ってしまった。しまったといっても、わたしには少女にかける言葉など持ち合わせていない。この神社に木の葉ひとつ落ちていないのは、少女がこうやって神殿に居座っているからだった。


 相変わらず、妖怪じみた不気味な女だ。


 ぱたぱたとあげは蝶が籠のなかで飛び回る。このような狭い空間で飛べば羽が傷つくだけなのだから、静かに息を潜めていればいいものを。指先ですりつぶせる虫に憐れみを覚えながら、参道を下ってわき道へそれる。そのまま石段を降り、子ども二人並んで通れない道を歩く。裏口から庭に戻れば、文庫本に目を落としていた夕霧が顔をゆるやかに上げた。心なしか顔色が優れないようで、見れば氷は随分と溶けていた。それほど時間はたったように思えないが、顔だけは知り合いの少女と会ったせいで時間を食ったのかもしれない。


「ほら、あげは蝶だ。待ったか?」

「それなりには。黒と黄色の蝶でしょう? おいでなさい」


 座敷にあがり、脇息に凭れかかったままの夕霧へ籠を突き出した。蝶は諦めたのか羽ばたきをやめてじっとしていた。作り物のような無機物さに、夕霧は微笑を浮かべる。そして、細い指で籠を受け取り、しげしげと蝶を眺めてから畳にそれを静かに置いた。蝶はときどき呼吸をするのか、羽を広げては閉じる。


「見事なあげはですね。杜へ遣して正解でした。橘、暑かったでしょう。涼みなさい」


 そうはいっても、扇風機は生ぬるい風しか送らない。間近で夕霧の額を見ると、うっすらと汗が滲んでいる。人を呼んで氷を運ばせたほうがいいだろうと腰を浮かせる。しかし、彼は、夕霧は首を振った。


「いいのですよ。それよりも、橘がせっかく獲ってきたのですから、籠から出してやりましょう」


 そういって彼は緩慢な動きで立ち上がり、床の間に無造作に置かれた裁縫箱から白い糸を取り出した。くるくると手に巻きつけて七回分の長さを切り出すと、先に輪を作る。今度は緩慢というよりは慎重に、蝶を籠から取り出すと輪を胴体にかけた。きつくもなく、ゆるくもなく締まる輪に拘束された蝶は、もがくように羽ばたき始める。しかし、繋がれた糸は夕霧がしっかり握っており、糸の長さ以上には飛べないし進めない。それでもふらふらと光差す庭へ羽ばたくのだから、虫とは憐れだ。その命が弄ばれていることにも気づかないのだろう。


「空を飛ぶものはうつくしいのですよ。殊更、蝶はうつくしい」

「悪趣味だな。蝶は蝶だろう」

「蝶は蝶ですが、ここでは人が死ねば蝶になるのですよ。悪くはない話ではありませんか。わたしが蝶になるのは、悪くない話です。そして、蝶になった人で遊ぶのも悪くない話です」

「迷信だろ。それは虫に過ぎない」

「ええ、それは承知ですよ」


 微笑んで繋いだ蝶を手繰り寄せた夕霧は、気まぐれに空に放ち、また糸を手繰り寄せるという遊びを始めた。そして、思い出したようにわたしをみて、懐に手を伸ばした。


「首輪を忘れていましたね。首を出して糸を持ちなさい、逃がしてはいけませんよ」

「わかっている」


 糸を指に絡め大人しく首を伸ばすと、夕霧は馴れた手つきで取り出した縄を巻きつけた。きつくもなく、ゆるくもない。


「橘、もうしばらくしたら客が来るでしょう。報せてきなさい。突然の訪問ですがしょうがありません」

「わかった。夕霧、応接間へ移るか? 運んでやるが」

「いいえ。もうしばらくここに居ます。せっかく手に入れた蝶だというのに、すぐに離すのはもったいないでしょう」

「なんだ、蝶くらいならまた捕まえればいい」

「わたしがいい、と言えばいいのです。行きなさい」


 よほどお気に入りの蝶らしい。さきほどから蝶を見て顔を向けようとしない。どこか幼いその仕草に呆れを覚えたけれど、相手は夕霧なのでしょうがなかった。この悪趣味も褒められたものではないし、夕霧の母なんかは嫌がっているがしょうがない。夕霧で回っているこの屋敷では、彼の意向に背くことはできないのが当然だ。

 そのまま縁側から庭へ戻り、屋敷の裏に回る。母屋の炊事場へ顔を出せば、使用人の一人が皿を洗っていた。


「おい、客人がしばらくしたら来るそうだ」


 声をかけると使用人の女は猫のように飛び上がり、手から滑った陶器が音を立てた。脅えて振り返る使用人の顔を見つめる。一重が腫れぼったいが造作は悪くない。


「橘さま、申し訳ありません。皿が、欠けたかもしれません」

「そうか。しかし、皿のひとつで夕霧は怒らないだろ。古伊万里を犬の皿にするくらいだ」

「犬の、皿でございますか」

「番犬としてな。光江はどこだ?」

「奥様なら夕霧様のお召し物を」

「裁縫か。まったく、どいつもこいつも糸が好きだな。ところで、お前の名前は?」


 前にも聞いた覚えがあるが、忘れてしまった。すまないと形ばかりの謝罪をすると、使用人の女は蚊の鳴くような声で「みやだ」と名乗った。みやだといえば当家の左に建つ屋敷ゆかりの者である。井の字の真ん中に立つ当家は宗家と呼ぶことができ、囲むように立つそのほかの屋敷は傍系だ。聞けばみやだは一月前にわざわざ東北の実家から呼び出され、炊事場担当として雇われたらしい。恐らく、わたしより幾つか年上だろう彼女は、酷く恐縮しており、わたしが目の前に居ることが落ち着かない様子だった。特にみやだに興味がないので、雪駄を脱いで奥へあがる。薄暗い廊下は外よりはひんやりとしている。そのまま夕霧の母の部屋へ向かい、襖を挟んで声をかけた。


「光江、客がくる。夕霧が見たらしい」


 しばらくして衣擦れの音がし、まだ若い女の声が返ってきた。


「わかりました。旦那様に伝えて準備します。夕霧は応接間にいますか?」

「蝶と戯れているぞ」

「また、あの子は……橘、夕霧のそばにいなさい。あの子を守るのはあなたなのだから」

「わかっている」


 開かない襖に目を細めて踵を返す。誰と中に篭っているのか。光江は今年で三十を越えたばかりの女だからか、立ち上るまだ若い女の匂いに誘惑される使用人が後を立たない。夕霧の父は黙認しているようだが、彼は妻に興味などない。夕霧を孕ませたという役目は終わったのだからと妻には見向きもせず、慈善事業の孤児院に精を出している。そこで彼は年端もいかない子ども達に綺麗な着物を着せ、花で飾り、甘いお菓子を与え、膝にのせて絵本を読んでやることに夢中だ。たまに刺繍を教えるらしい。針でうっかり指をさして泣く子どもの、柔らかい指を吸うのが彼の至福なのだと、その様子を眼裏で見た夕霧がいっていた。


 しかし、夕霧の母も、父も、わたしには関係のないことだった。たとえ、少女の言うとおり夕霧が双子の兄でも、わたしは家族から切り離された何者でもない人間だった。いや、人間ですらない。何故なら、人間に首輪はかけない。それくらいは常識としてわきまえているからだ。

 屋敷の中を通って夕霧のいるだろう座敷へ向かう。


「伝えてきたぞ」

「そうですか。母上は気まずかったでしょう。お可哀想に。使用人の情に縋るしかできないのですから、しばらくは許して差し上げましょう」

「夕霧がそうするならな」


 屋敷で起こっていることを把握している彼は、にっこり微笑んで立ち上がった。彼の影が落ちる先には羽がぼろぼろに零れたあげは蝶が落ちていた。まだ動いているがやがて死ぬだろう。


「指が汚れてしまいました。蝶はうつくしいけれど、これは好きになれませんね」

 燐粉のついた指先を差し出すので、シャツで乱暴に拭ってやる。

「では、いきましょう。もう客がくる頃合ですから。橘は隣室で待機なさい」

「わかった」


 頷いて夕霧のあとに続く。座敷に打ち捨てられたあげは蝶は使用人が片付けるだろう。もしかすると、夕霧の品として信者に横流しするのかもしれない。彼は神のより代として僅かな未来を覗ける。成人する前にこの屋敷群を見下ろす神社に捧げられ、神殿で暮らすことになる。そうして、神殿に住む少女は夕霧の一生に付き添うのだ。

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