コウ/ウソ
何もなかったことを説明するお話。
◇
ウソつきになりたい。
◆
人為康太は幼なじみに電話で呼び出されて、重い足取りで出向いていった。
幼なじみの名前は作谷鷽。
昔は男だと思って野山を一緒に走り回っていた。性別が女の子だと気づいたのはいつだったか。今では快活な笑顔が眩しくて、可愛らしい女の子だった。
ただ、意地っ張りなのが玉に瑕。
鷽の家は隣でこそないが、ごく近所に住んでいる。歩いて数分もかからない距離だった。
ただ、親の意向と成績から康太が違う学校に行くことになって以来、一緒に遊ぶことはすっかり無くなってしまった。
こうして鷽に会うのも二ヶ月ぶりになる。
幼い頃には毎日互いを泥まみれにしたり、一緒に風呂に入ったりもしていたが、今となっては懐かしい思い出となってしまった。
そういう年齢ではなくなった。そういうことなのだろう、と康太は懐古する。
鷽と過ごす時間が減ることを、康太は仕方ないものとして捉えていた。
ある意味では当然のことで、たとえば物心ついたときにした子供らしい約束についても、彼女はすっかり忘れ去っていると思っていた。
ただ、仕方ないとは思っても、悲しくはあったし、寂しくもあった。
だからこうして電話で呼び出されたとき感じたのは、何か奇妙な気分だった。
鷽は何か用事があれば、電話ではなく走って直接康太の家に来てしまう。
そういう直情的な性格だった。
彼女はまどろっこしいことが嫌いだ。
回りくどい喋り方をすると早く結論を喋ってと急かされる。
気が短いというより無駄が嫌いなのかもしれない。康太とは違い、とにかくストレートな物の言い方を好んでいた。
好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。彼女はひどく正直で、まっすぐな言葉を使う。
康太はそんな鷽に仄かな想いを抱いていた。
うぬぼれでなければ、康太は、鷽も同じ気持ちなのだと思っていた。
だが、そうではなかったのだろう。
本当に小さかった時期に交わした、あの戯れのようなやり取りを除き、鷽が康太に抱いていたのは友情であって、決して恋心ではなかった。
悲しいけれど、受け入れるしかない。康太は唇を噛み締め、いつかの想いを忘れようと日々を過ごしていた。
鷽との付き合いが途絶えた日々は、穏やかではあったが、どこか色褪せて見えた。
そんな鷽からの呼び出しだ。思い当たることが無いわけでもない。
違う学校に行くことになって、そのことを鷽はギリギリまで知らなかった。そのせいで一時期、顔を合わせれば喧嘩ばかりしていたことがあった。
もちろん康太が意図的に知らせなかったわけではない。
しばらく前から鷽の両親には話してあったから、鷽も知っているとばかり思い込んでいたのだ。
だが、彼女の両親が伝え忘れたせいで鷽はそのことを直前まで教えられず、康太は黙って他の学校に行ったとして、手ひどく裏切られたと思ってしまったらしい。
誤解だと判明するまで、鷽の荒みようといったらそれはそれはひどかった。
お互いの両親の相談の結果、この行き違いが単なる伝達ミスの結果と分かったものの、だからと言って康太と鷽の学校が同じになるわけでもない。
悪気がなかった分だけ、むなしさとどうしようもなさは倍増したのだろう。
最終的に、鷽が康太に決定的な一言をぶつけた。それが二ヶ月前のことだった。
「こうちゃんなんか、だいっきらい!」
それ以来、康太と鷽は、一度として会話もせず、それどころか顔も合わせていなかった。
康太が呼び鈴を鳴らして、少し待ってから玄関の扉を開けた。
以前は当たり前のように互いの家に入り浸っていたから呼び鈴すら鳴らさずに出入りしていたが、今はそういうわけにもいかない。
大声で挨拶しながら中に入ると、出迎えてくれた鷽はいつもと違う表情だった。
何かを覚悟したような顔だった。
着ている服は薄い若草色の半袖Tシャツで、赤いミニスカートから太ももが白く覗く。まだ時期的に夏ではないにも関わらず、やけに無防備な薄着だった。
挨拶の言葉もなく、いきなり康太の手を握りしめ、無言で自分の部屋に引っ張っていった。
康太は普段の様子とも、以前とも異なる鷽の突然の強引さに驚いた。
しかし、何かの予感を覚えて、手を引かれるままについていった。
珍しく鷽の両親が家にいないことは靴の数と、気配で分かった。
何か言い訳するかのように、居間のテレビの音が妙に大きく響いている。
鷽に手を引かれ、久しぶりに彼女の部屋に迎え入れられると、康太はむしょうに落ち着かない気分になってしまった。
何度も入った部屋のはずだった。なのに、少しだけ違っている。
甘い香りがしていて、以前はなかった雑誌や雑貨品がテーブルの上に置いてある。それだけでまるで見知らぬ少女の秘密を覗き見たような、不思議な緊張を感じた。
鷽は少し待っていて、と素振りだけで康太に指示をして、さっと出て行ってしまった。
窓は閉め切られていて、分厚いカーテンでしっかり隠されていた。
康太が座る場所に困って、とりあえずベッドに腰掛けると、すぐに戻ってきた鷽は麦茶のボトルとコップを二つテーブルの上に置いて、もどかしげに雑誌をどけてから、そっと注いでくれた。
何か大事な話があるのだと、康太は理解していた。
だが、鷽はなかなか口を開こうとはしなかった。
そのうちしびれを切らした康太が動こうとするのと同時に、鷽は弾かれたように立ち上がり、ドアに駆け寄って部屋の鍵をかけた。
それから振り返り、少しずつ近づいてきた。
いきなり不可解な行動に走った鷽の表情や雰囲気に、康太は固まっていた。何かを聞くべきなのだとは分かったが、その言葉が思いつかなかった。
◇
「あたし、こうちゃんのこと、だいっきらい」
鷽は泣きそうな顔で、以前と同じ言葉をいきなり言い出した。
康太は表情を険しくした。わざわざ呼び出して告げられるような内容ではない。ただ、怒りよりも悲しみを感じる方が強かった。康太は部屋のドアへと向かうルートを鷽に潰された状態で、立ち上がるだけの余力も、声を発するだけの気力もなく、ぼんやりと続く言葉を待った。
仲直りが出来るのだと信じてやまなかった、数分前までの康太。
わざわざ呼び出されたあの電話は、このむごい絶交のためだったのか。
鷽の表情は歪んでいて、痛々しいくらいだった。
泣きそうなのはこっちだ。
康太は、近寄ってくる鷽の顔を見上げて、唇を震わせていた。思うところは山ほどあったが、言葉にしなかったのは信じられなかったから。信じたくなかったからだ。
同じ学校には行かない。あのときは、わざと伝えなかったと思われた。その後、鷽もそれが誤解だったと知った。にも関わらず、それでも二人の道は違えられたままであり、だから鷽は心にもない言葉を勢いのままに言ってしまった。
康太はずっとそう思っていた。
いつも言葉を素直にぶつけて、飾らないで、想いをまっすぐに吐き出す鷽の、どうしようもない本音だなどと思いたくなかった。
しかし致命的なその言葉は、こんなにもはっきりと繰り返された。
康太はもう、鷽の吐き出した大嫌いの一言を受け取るしかない。だけど何故、鷽はそんな言葉をこんなにも辛そうに口にするのだろう。
どれほど考えても分からなかった。
関係を切りたいなら、もっと別の方法は山ほどあるはずなのに。
鷽は泣きそうな、しかし涙をこぼしていない、そんな微妙な表情のまま近づいてくる。どんどん近づいてきて、動く気になれないでいる康太の前に立ち塞がって、顔を寄せて、唇を触れ合わせた。
康太は驚いた。どうしてそうなるのか。
望んでいたことではある。
しかし鷽の唇は少しだけやわらかく、少しだけ乾燥していて、かさかさとしていて、よく聞くようなイチゴの味がするなんてことは全然なくて、その瞬間には味も意味も全く分からなかった。
視線は合わないで、頬のあたりが大きく見えて、その肌がやけに赤かった。
物事にあるべき順番であるとか、脈絡であるとか、想いを確認するとか、そういう当たり前を蹴飛ばされてしまって、しかもこの行為は鷽が大嫌いと吐き出した直後で、康太はただひたすらに混乱してしまった。
どうすればいいのだろう。
何が正しいのだろう。
康太にはもう何も分からない。ただ触れていた唇をそっと離した鷽が目の前にいて、何かを求めるような、諦めるような、ひどく不安げで、寂しげで、切なそうな眼差しを揺らしていることだけが、今分かる唯一の真実だった。
そして康太は鷽の部屋を見回すと、彼女がかけた鍵のことを思い返した。今この場にいるのが二人だけであること、鷽の華奢な体つきと、己の心臓が早鐘のように打つその鼓動、唇の感触と、これまでのもどかしい日々とが、すべて一度に脳裏を過ぎっていった。
康太は何も言わずただ立ち尽くす鷽の身体をそっと抱き寄せると、その形が良く、今はひどく赤く染まっている小さな耳にゆっくりと囁いた。
鷽はこくん、と小鳥のように頷いた。
◇◆◇◆
だからこれはきっと、ただのウソだ。
いや、起きなかったことだ。
◆◇
外から部屋の中の様子は窺えなかった。音が漏れることもなかった。本当は何が起きたのかを二人以外に知るものはいなかったし、康太と鷽はこの出来事を口にすることはしなかった。
◇◆◇◆
康太は鷽に愛を囁かなかった。彼女の未成熟な身体を抱き寄せたりもしなかった。すぐ脱げるような服やスカートをめくることもしなかったし、可愛らしい下着を脱がせたりもしなかった。
肌のやわらかさを執拗に確かめたりもしなければ、鷽の髪の毛を手櫛で梳ったり撫でつけたりもしなかった。
康太が今度は自分から唇を触れ合わせることもなかった。ましてや舌を入れたり絡めたり、口内を舐め尽くしたりもしなかった。
康太は自分から鷽の下着の色を確かめることはなかった。しかし鷽はすでにシャツを着ていなかった。大きさからすればそれほど付ける必要のないブラジャーを鷽はつけていなかった。その桜色の突起をつまんだり舐めたり噛んだりも康太は進んですることはなかった。
康太の知識は少なかった。だから決して慣れているわけではなかった。
ぎこちない手つきであることを鷽は咎めるようなことはなかった。
もちろん鷽も慣れてはいなかった。
脱がされなかった下着を鷽は自らベッドの上に置くことはなかった。それも昔のようにパンダの描かれたガラ付きの子供っぽいパンティーではなかった。
康太は鷽のことを押し倒したり乱暴に扱ったりもしなかった。腕を掴まれなくても腰を触られなくても鷽は逆らわなかったし暴れたりもしなかった。
どういうわけか鷽は自分から動かなかった。康太はそんな鷽の手を取らず、目を逸らしたりもしなかった。それでも彼女はベッドの上で一人にされることはなかったし、康太の動きが止まることもなかった。このときも鷽は喋らなかった。どんな状態になっても決して声を出さなかった。
康太はそんな鷽をずっと知らなかった。こんな風に振る舞う彼女のことを見たことがなかった。康太は鷽を傷つけなかった。けれど余裕があるわけでもなかったから、優しくもできなかった。
二人は愛を確かめ合わなかった。鷽は絶対に途中で辞めるように懇願したりはしなかったし、康太も止めるつもりはさらさらなかった。
ベッドのシーツに赤い染みは飛び散らなかったし、鷽の息も荒くはならなかった。それから何時間も行為に及んだりはしなかったし、二人は汗だくになったりもしなかった。触れ合わなかった唇同士が銀色の糸を引くこともなかったし、別の部分が同じ状態になったりすることもなかった。二人の体液が混ざり合うこともなかったし、最後の一線を越えることもなかった。
その後、鷽は疲れた様子で身体を起こすこともなかったし、康太が汚してしまった部分を丁寧に拭き取ったりもしなかった。
つまり、何も無かった。
鍵のかかった鷽の部屋で、二人のあいだに、特別なことなど何も起きなかった。
◆◇◆◇
それから鷽は泣き笑いのまま、叫んだ。
「あたし、こうちゃんのこと、だいっきらい!」
「知ってる」
康太が頷くと、鷽の表情はますます歪んで、震えながら声を吐き出した。
すべてが終わってしまったあとにしか言えない言葉だった。
「……でも、ウソだよ」
「それも知ってる」
「あたし……昔の思い出なんか、約束なんか、ぜんっぜん覚えてないからっ」
「そっか」
「……こうちゃんのバカ」
「ごめん」
「……うん、あたしこそ、ごめん」
二人はそれから、あるはずだった時間、何も起きなかった日々を想った。
しかしそれとて特別なことではなかったと、二人はもうとっくに知っていた。
二人のあいだには特別なことなど何もなかった。いいね?