メル変屋敷のお引っ越し
1.
その国の首都の北の境の一部になる、これといった名所も産業も持たず、ただ人が出掛け、眠りに帰ってくるだけの全く無個性な自治体の一角に、卦好風太の自宅は建っている。師走に入ったつい先日の頃から、この家の様子が何だか慌ただしい。新しい家で新年を迎えるため、家人総出の引っ越し作業が始まっていたのである。
作業の初期段階として、現在は新居に持っていく物と、不要な物との選別作業が主になっている。なにせ25年以上暮らした家である、初期段階から作業量は膨大であった。風太は手始めに自室の整理から始めていた。まだ他にも居間や物置、台所…暮らしてきた証の棚卸しをすべき場所は、たくさんある。
とにかく目で見ないことには要不要の別は決められない。風太は自室の押し入れから、押し込んであった物を全て、一先ず出すところから始めている。この作業を始めるに際し、彼は特にこれといった方針を定めていなかった。状況を見て、そのつど考えようとしたのである。と言う訳で、自室を大雑把に二分し、要る物・要らない物と取り出す度に積み上げ始めたまでは良かったが、押し入れの中の歴史的高集積状態を甘くみていたのがそもそもの誤りで、始めて30分でスペースが足りるのかと不安になり、その更に15分後には、床上に如何に押し入れ内と同じ高集積状態を再現するか、そちらの方に関心が移っていた。
本当に心許なくなってきたスペースに、古葉書などが詰まった箱を置こうとした時である。風太の手が思いも寄らぬ抵抗を感じた。その場所を良く見る。錯覚でも何でもなくそこにはまだ何も置いていない。もう一度試みる。何かに突っ掛かる。2,3度試みて、何やら柔らかな障害物が、目には映らずそこにあるとしか思えなかった。
むぅ、っと訝しむ。すると不意に彼の目前を、小さなクラゲみたいな奴がそよ風のようにふいっと横切っていった。あっと目で追うのも束の間、それはけらけらと微かな笑い声を残し、空気に溶けるように消えてしまう。
…さてはメル変者の仕業か!
確かめるべく、風太は手を伸ばした。ぎょっとして動きを止める。触れようとした指の先にある空間が、細く短く真っ直ぐに、ぴっとひび割れたのだ。
息を飲んでいると、その細い二本のひび割れがぱかっと見開いた。何も無い空間に、あろうことか二つの目玉が現れたのだ。風太がのけ反ると、その深みまで澄み渡った青い瞳が、にっと笑った。
にやけた目玉がゆっくりと持ち上がっていく。何も無いと思っていた場所から、何者かが徐々に身を起こすようである。呆然と見守っていると、不意に、背景の一部が人型に切り取られた。かと思うと、それ自身淡く輝く金髪を豊かに、緩く波打つように流した絵にも描けないような美女が、唐突にそこに居る。
「あっははっ! すっごいびっくりしてやんの!」してやったりの表情なのは、風太の家の居候、エレナだった。
家主でありながら、この女性について風太が語れることは極端に少ない。それも、自分でも信じ難いことしか語れない。そもそも風太は、エレナと何の一面識も無いはずだったのだ。それが何故か、数年前の春先、何の前触れも無く彼女がこの家を訪ねてきた。そして更に何故なのか、ふと気が付いたら居候になっていた。この過程に釈然としていないのは風太だけで、過程の正当性そのものは風太以外の全世界が承認し、与えたことであった。それがまた釈然としないところであった。
それにしても、エレナは一体何処からやって来た、何者なのだろうか。当人は“異世界”からやって来た“女神”だと言い張っている。今も見たような無類のいたずら好き、子供みたいにわがままでマイペース。「うにゅ。エレちゃんの仕込みに満足してくれたようで、なにより」おまけに一人称がこれである。およそ女神らしくない。
しかしこの自称女神様、時折今の姿隠しのような、奇跡っぽいことをやってのける。この姿隠し、例えば全身をスクリーンで覆い、各所に超小型カメラを仕込んだ上で背景を反対側の面に投影していたとか、多少苦しくても科学的に理屈付けられそうな、そんな技では無い。彼女は既製服を着ているし、床に寝そべっていたのだから仮に背景を投影したとしても真っ暗にしか見えなかっただろう。これは本当に、彼女自身が体一つで見せた芸当なのである。
エレナの満面の笑みを前に、風太は頭を抱えている。すると、今度は何処からともなく、胴体(?)の大きさはテニスボールくらいで、四分音符や八分音符みたいな格好の尻尾(?)を生やした薄緑色に半透明の何者かが、四つ五つ、ふよふよと頭の周りに纏わりついてきた。それらは漂いつつ風太に触れると不規則に形を変え、その度に音階の違う、金属的な美しい音を奏で始める。「…エレ様、遊びたいならこいつらと遊んでてください」風太が付点二分音符みたいな奴を指で弾くと、そいつはピーンとハリセンボンのようになって、エレナの方へ飛んでいった。
「メル変のみんなだって風太をからかいたいよねぇ?」エレナが音符たちに問うと、それらはきゃらきゃらと楽しそうに、一斉に形を変えた。
さっきのクラゲみたいな奴も含め、エレナが住み着いたと思ったら、それまで常識的だった我が家に突如としてあふれ出し始めたこれらの何だか良く分からない存在のことを風太は知らない。否、人として判断停止を貫いている。エレナはこれらのことを、まとめて“メル変な子たち”と呼んでいた。確かに変なことだけは分かる。いやそれを言ったら、そもそもエレナ自身がその在り方としてメル変、もしくはメル変の親玉のようだった。
エレナと関わるようになってから、風太は時折思うのである。自分の名字は“卦好”ではなく、本来は“怪好”ではなかったのかと。
(縁起かつぎも大概にってな。えぇ、ご先祖様?)
首から上を的にエレナに次々と音符っ子を投げつけられながら、風太は眼窩に濃い影を落としつつ、現在の理不尽の種をいつものように過去に求めていた。
2.
引っ越しに手間がかかるのは当然なのだが、かと言ってそればかりにかまけている訳にもいられない。仕事を持っている者は仕事へ行く。
風太自身は自宅から私鉄の駅で三つほど離れた所にある、築20年・蔵書数8万冊ほどの小さな公立図書館で働いていた。ただし自治体職員ではなく、図書館運営が次第に民間へ業務委託されつつある最近の流れに乗り、スタッフを派遣している、ある民間会社の社員だった。
正午近くの館内。この時間帯はやはり昼食時なのか、忙しい休日でも比較的息のつける一時だった。ましてや今日は平日、館内が閑散としているのは普通のことだった。
書架整頓に出ていた風太が、貸出・返却などが行われるカウンターへ戻ってきた。一人で番をしていた同僚が、新着資料の目録から顔を上げ出迎える。
「早かったね」歯切れのいい口調の彼女は、この館の委託スタッフを束ねる業務責任者だった。
「ま」風太は苦笑しつつ応じる。「早くならざるを得なかった」
「ふぅん」化粧っ気のほとんど無い、しかし人並み以上に整った顔に笑みが浮かんでいる。「訳を聞こうじゃないか」
「姐御、訳知り顔ですぜ?」風太もにやにやしている。
「そうであっても、だ」彼女は涼しい顔をして、背中の中ほどまで伸ばした髪を右手で軽く梳いた。無造作に束ねてあるだけのそれが、さらさらと音を立てて細い指先を滑り落ちる。「業務責任者としては、一応聞いとかなくちゃならんでしょ」
「お察しの通り」まだ整頓の済んでいない書架のその最後の一角の側には、閲覧席が幾つか設けてある。そこに利用者たちがふんぞり返り邪魔で整頓が出来なかったと風太は答えた。「これがまた揃いも揃って背広姿の、如何にも外回りをさぼっていそうな奴ばかりでね」夏も冬も空調が利き、無料で本は勿論、漫画や雑誌も読み放題の図書館は格好の隠れ家だろう。そしてそういう連中はどういう訳か、足を無駄に長く見せたがる習性があるようだった。
「御社の正社員はそんなもんですってか?」彼女は小気味よく切り捨てた。このきっぷの良さと面倒見の確かさとで、彼女は妹崎水夢というアーティストのような名前を持ちながら、同僚はおろか一部の利用者からも姐御と呼ばれ親しまれていた。彼女自身もその通り名を良しとしているところがあった。
「ほぉんと」風太の眉の寄せ方、笑い方がデフォルメされている。「契約社員とか、あやふやな立場で安月給でこき使われる身が馬鹿馬鹿しいね」三日月型に歯を剥き出し、くつくつと喉を鳴らしながら皮肉った。
その時、出入り口の自動ドアが開いた。来客の気配に二人は口を閉じる。
見れば、入ってきたのは二人の知り合いだった。小柄で儚げな体つき。優しく整った面立ち。左耳の近くを一房、三つ編みにしている以外は癖も無く長く垂れた、濡れたような濃緑の髪は、彼女の繊細な美しさを一層際立たせている。エレナ同様、風太の家に厄介になっている、リンだった。
「こんにちは」鈴が震えるような声で、リンから先に挨拶してきた。カウンターの二人も挨拶を返す。
「お借りしていた本を返しにきました」リンは肩から提げた鞄からハードカバー3冊を取り出し、カウンターに置いた。
「リンちゃんはいつも礼儀正しいね」返却されたばかりの本に手を伸ばす姐御は、上機嫌だった。「おまけに、本をたくさん読む子は好きだよ」
「いえ…」僅かに頬を染め、リンは俯いた。彼女はこの図書館の常連だった。そして今返した3冊は、二日前に借りていったばかりのものだった。
「そういや」姐御がふと思い付いたように言った。「リンちゃんって平日のこのくらいの時間によく来るけど、何やってる人なの?」顔見知りではあっても、これまでお互いに自分のことを話した覚えは余り無かった。
「えっ! あ、あの…」するとリンは、薄い色の肌を更に朱に染めて口ごもってしまった。
「あ、ごめん! 立ち入ったこと聞いたかな」思い掛けない相手の反応に、姐御も慌てて手を振った。
「大丈夫だよ、姐御」笑いながら風太が助け船を出す。「彼女はね、作家志望なんだよ」アルバイトで風太の家に入れる金を作りながら、夢を追い続けているのである。
「もう、風太さん…!」しかし、リンとしては余り公にして欲しくない事なのか、咎めるような目付きで風太を見た。
「いやいや、いいじゃん」やはり図書館で働く身としては興味があるのか、姐御は目を輝かせた。どんなものを書いているのか、賞に応募したことはあるのか。矢継ぎ早に質問を浴びせ始めた。聞かれるリンの方は、嫌がってはいないが困った様子で、何やら身の置き所がないと言ったふうに頻りにもじもじしている。
その様子を風太は苦笑しながら見ていた。姐御だって、真相を知ったら同じように苦笑するしかないだろう。
リンは、実は人間ではなかった。見た目はホモ・サピエンスとなんら変わるところがないが、“詩妖”という、人ならざる種族の一員だった。この詩妖なるもの、相手の生命力と引き換えに詩人や作家に優れた霊感を与えるのが本性で、天才文人の夭逝と結びつけられる存在である。ちなみに、リンのフルネームはリン・フェイラ・ト・ア・ランペイラ・クゥといい、詩妖たちの言語で“言葉にリボンをかける娘”を意味するとの由である。
ところでリンは、“詩妖”の“作家志望”なのである。
この事実から必然的に導かれてしまう帰結として、リンは、自分に自身の詩妖としての能力を行使し、小説を書いていた。しかし、にもかかわらず彼女は依然として“作家志望”なのであった。
これは別に、彼女の詩妖としての能力が劣っているからではない。詰まる所、彼女は自分の作品について極端も極端な恥ずかしがり屋なのである。詩妖の力を己に向けるリンは、比喩ではなく事実として血を吐きながら創作をする。以前、そうまでして書いたものを何故公表しないのか、問うたところが彼女は息も絶え絶えに言う、「自分の書いたものを人様にお見せするなんて…考えただけで、は、恥ずかしくて、死にそうです…」
リンは一体何のために自らの命を削り、創作をし続けるのか。彼女もまた“メル変”なのであった。
気の毒なのか幸いなのか、以上の事は姐御には内緒の話だった。リンが命を削り続けてもなお生き延びてきた、実際には生命力溢れまくるお嬢さんで、その儚げな見た目は実はフェイクであることもついでに内緒である。
「やあ!」その挨拶という名の高エネルギーの疎密波が風太の後頭部を打った。続いて彼の背後の気圧が五割ほど増し、前のめりに倒れそうになる。背丈に首回り、腕回り、胴回りや太もも回り等、全てにおいて規格外の大男が、風太の背後に立っていた。カウンターの裏にある事務室から、出てきたようだった。
「お久しぶり、リン義妹。ご機嫌はいかがかな?」大男はカウンターを回ってリンに近付こうとした。彼が進もうとする先の空間から風が吹き出している。姐御の質問攻めから解放された点から言えば、この事件は僥倖である。しかし、超局所的な高気圧を発生させつつ大男が迫ってきているのである。リンは結局笑顔を凍りつかせた。半ば風に押され、半ば自主的に、数歩後ずさった。
「ちょっと、館長」姐御が窘めた。「リンちゃんが怖がってるよ。もうちょっと静かに出てきてよ」
「おう。これは済まん、妹崎義妹!」力強く足を踏みしめて、大男は止まった。「ちょっと用事があってな。リン義妹の声が聞こえたので、慌てて出てきた次第だ」悪びれる様子もなく笑う。
姐御も言った通り、この大男は当図書館の館長だった。姐御や風太のような民間のスタッフではなく自治体の職員である。五十代の、人間の男性だった。
ちなみに、リンや姐御のことを義妹と呼んでいるが、これは彼独特の癖である。彼にかかれば、正しく人類は皆きょうだいなのである。今の一連の出来事を見て呆れたように笑っている風太も、2年前、初対面でいきなり“卦好義弟”をやられ、言葉を失った口だった。全く、スキンシップの激しい親父であった。
「ところでリン義妹」館長は改めてリンに向き直った。「今日はエレナ義妹と一緒ではないのかな?」
「エレ様ですか…」一応初めての衝撃ではなかったので、リンは既に落ち着いている。「生憎、今日は山の方へ散策に出掛けています…」
「山へ?」館長は窓外へ目を遣った。冬晴れの穏やかな昼下がりである。「天気はいいが、寒いのでは?」もっともな懸念だった。
「山と言っても、そんなに高い所じゃないんですよ。標高で言えば600メートルくらいです」風太が補足した。
「ほう」館長は頷いた。「場所はどの辺りなのかな?」
その国の首都の最西端に広大な面積を誇る町がある。その町は、首都に暮らす人々の水瓶となる人造湖を抱えている。その湖畔に首都が管理している森が広がっていて、更にその一角に、首都が運営している自然公園があった。
「気軽に歩ける遊歩道が整備されてたり、地域の自然に詳しいスタッフが常駐してたりする公園でして。知り合いが働いてるから、ちょくちょく遊びに行ってるんですよ」風太が言えば、「それに、今の時期は、落葉樹の森なら地面まで陽が当たりますから…真冬でも、天気のいい日は意外と暖かいんですよ…」自身その森に馴染みの深いリンが、楽しそうに付け加える。
「葉っぱが無いから鳥が見やすかったり、人気が無いから動物に会いやすかったりしてね」その森での経験なら風太も譲らない。「意外かも知れませんが、冬の森って、実は結構お勧めなんですよ」
「ふぅむ。そうか」館長は少し残念そうだ。「こちらもエレナ義妹を喜ばせようとしたのだが…そんな楽しそうな所へ行ってるのなら、無用であったか」彼は一冊の厚い本を手にしていて、それに目を落とした。タイトルを見れば、この国の伝統的な民具を図解入りで解説した、事典のようだった。
「それは?」風太が問えば、「新規受け入れ図書にあの金髪の義妹が喜びそうな本があったから、確保しておいたのだ」館長が答える。エレナは確かにこういう調べ物の本が好きだった。風太はなるほど、と納得する。
一方で、それを聞いた姐御は眉を顰めている。「ちょっと館長。なに勝手なことしてんの」
姐御の不機嫌な声を聞いても、館長は澄ましたものだった。「幸い予約は入っていなかったし、わしのカードで借りておいた。強制貸出してくれれば良い」
「ま、責任取んのは館長なんだし、いいけどね」溜息をついて姐御は言う。「でも、余りおおっぴらに言わないでよ。えこひいきには違いないんだから」
「えこひいきではないぞぉ、妹崎義妹」館長は楽しげにもったいぶっている。「これは節度を守って図書館を利用してくれている人への、わしからのささやかなサービスなのだ。それに、えこひいきと言うならマナーのマの字も知らないような連中と一緒くたに扱ってしまう方が、よほどえこひいきではないか」
屁理屈を言っているようで、その実館長は大真面目なのだった。彼のこのような、お客様は神様でも何でもないという態度と実践が自分と通じあうからこそ、姐御は館長を信頼しているし同志と思った口の利き方も出来る。「はいはい」笑って引き下がった。
自動ドアを開けてまた新しい客が入ってきた。本来なら余り感心されない楽しいお喋りも、一度切り上げなければならない。風太と姐御は客へ、リンは目的の書架へ、館長は事務室へと、一先ず解散であった。
その頃の、その国の首都の西の外れにある、自然公園での出来事である。
人造湖の脇を通る自然遊歩道の坂道に、柔らかな日差しが落ちている。頭上は木のトンネルなのであるが、大方の枝は葉を落としていて、踏み固められた土の道は明るかった。
その坂道を一匹の小動物がとことこ上っていた。大きさは猫くらいの、四つ足の獣だ。全身真っ白な体毛は触れれば柔らかそう。顔立ちや体付き、ふさふさの長い尻尾は、似ている動物を探すならイタチの仲間だろうか。
その小動物は口に紐をくわえ、それに結び付けられた自分の体長よりもやや大きい、四輪の台車を引いていた。台車の上にはスケッチブック、レジャーシート、一見では用途の分からない筒状の物など雑然と積まれている。台車の四つの車輪は巧みな緩衝装置としても働いているようで、時折木の根が露出しているようなでこぼこ道を、積んだ物を振り落すこともなく粛々と進んでいた。
小動物がふと立ち止まり、前脚で車輪の陰になってる部分に触れた。かちゃん、と音がして、引き紐を放しても台車が坂を落ちていかなくなる。
耳をぴんと立て、辺りを見回し始めた。近くに人気はなく、音といえば微風に揺れる枝の微かな軋みと、ぱちん、ぱちん…と、焚き火がはぜるようなそれが聞こえてくるだけだった。フジの種子が弾けとんでいるのだろう、小動物は判断する。
「エレ様…いい加減、自分の足で歩くんだな…」突如、人語を話し始めた。
小動物は自分の額の辺りを気にしていた。よくよく見れば、その辺りに白い体毛に混じり金色の毛が一本生えている。「しょうがないわねぇ」そこから、軽やかな女性の声が聞こえた。
その金毛がぽろりと地面に落ちた。小動物は一歩下がる。地面に落ちたそれが、見る間にエレナの姿に変わった。
「あーあ。この上り坂、結構しんどいんだよねぇ。あんたの仕事でサービス精神足りないのってどうよ、さみゅー」エレナは大儀そうに言う。
「この小動物に…」さみゅーと呼ばれた獣がもそもそと言い始める。「この大荷物を引かせる方が、サービス足りないんじゃないかな…?」反論ではあるが、覇気は全く感じられない。その、普段から諦念しか映していないような黒い瞳で、エレナを見上げる。
「甘えない。自分の物でしょ」エレナは相手にせず、すたすたと歩き始めた。
「ところでエレ様…さっきの、プログラムの振り返りなんだけど…」抗議とは裏腹に、何でもない足取りで台車を引きエレナの後を追う。紐をくわえたまま、器用に喋るものである。
「そうねぇ…」エレナは言葉を切り、考えをまとめた。「流れも無難だし、ここでの経験を日常に繋げてもいたけど、もうちょっと場のコントロール、した方がいいんじゃない?」エレナはさみゅーの額にあって、彼の仕事ぶりを見ていたのである。その上での指摘だった。
さみゅーはこの自然公園で“インタープリター”と呼ばれる職業に従事している。この横文字、一般には“通訳者”とでも訳されるだろうか。しかし、さみゅーらが通訳するのは人間の話ではなかった。彼らが通訳するのは、本来人語には属さない“自然が語る”“話”である。インタープリターはその耳には聞けない“話”を、様々な手法をもって“通訳”し、人に伝える専門家だった。海外では盛んなようだが、この国ではまだ余り知られていない職業かもしれない。
さみゅーも今し方“通訳”の仕事にいそしんでいたところだった。木の実や落葉を見ることの出来るお手製の万華鏡を使って、自然が無言で主張している、色や形の多様性についての彼らの自慢話を、ある親子連れに“聞かせて”いたのだった。
「いつもはあんな感じじゃないんだな…」頭の上から色々茶々を入れられたし…など、さみゅーは何やらもそもそ言っている。先程の“場のコントロール”という批評は、参加していた子供たちの手綱をしっかり取るべきだったということだろう。
インタープリターは来訪者を迎え、彼らに自然の“話”を聞かせようとするが、それは気紛れで行われるものではない。こうした機会は“プログラム”と呼ばれ、きちんとした達成目標と効果的な構成の元に実施される、教育的意図なのである。もっとも、教育的とは言っても学校での授業のような、ただ一方的に知識を詰め込むようなものではない。何よりも先ず参加者が楽しく、主体的に経験してくれるように配慮されていた。しかし、かと言って参加者が余りにもはっちゃけ過ぎてしまうようだと、今度は意図したことが何処かへ行ってしまう(ただ“楽しかった”だけで終わってしまう)。エレナが見ていたところでは、子供たちをプログラムに引き込む、もうちょっと効果的な手はなかったのかと思われたのだった。
「ほんとか〜?」エレナは、彼女の踵を追ってちょこちょこ歩いている小動物を見下ろした。「あ〜あ、毛がくあんくあんになってるよ。それにこれ手垢? 色が白いから余計に汚れて見えるね」さみゅーの抗弁に、エレナはとどめを刺す。「さて、こういう姿のあんたを見るの、今日で何度目かな〜?」
子供たちは自然の色形の精妙さよりも、目の前の人語を喋る、小動物の方に興味津々であったのだ。「ふ〜…」さみゅーは深い溜息をついた。
そんなことを話していると、やがて坂道が尽き、行く手に大きな平屋建ての建物が見えてきた。この自然公園の中心的な施設で、ビジターセンターと呼ばれていた。
ビジターセンターは、一つはこの自然公園を訪れる来訪者の拠点だった。ここでは園内を中心とした新鮮な自然情報が提供され、ガソリンスタンドや温泉など、周辺の施設照会も行われた。また、一方ではさみゅーらインタープリターの拠点でもある。先程さみゅーが行っていたようなプログラムなら、ここで申し込めば無料で体験出来た。また、屋内にはインタープリターが工夫を凝らした展示物が幾つもあって、ここでも自然の“話”を、人々に聞かせることに余念が無かった。
玄関の自動ドアを開ける。手書きのウェルカムボードの端には、きれいに押した葉っぱが何枚か貼り付けてあった。
「こんにちはー」風除け室を通って声を掛けると、中に居たさみゅ−の同僚たちが挨拶を返してくれた。二人ともエレナとは顔見知りだった。冬の森に見所はたくさんあるのに、屋内に他の来訪者の姿は無くひそとしている。
「エレナさん、寒かったでしょう? こちらへどうぞ」さみゅーが職員用の事務室へ台車を引っ張っていくと、同僚の女性がエレナも招いた。「ありがとう」好意に甘え、お邪魔することにする。
「どうぞ」リュックを抱えて椅子に座ったら、温かいお茶とお菓子を振る舞われた。エレナは礼を言って、遠慮なくいただいた。
「さみゅーちゃん、プログラムどうだった?」
「その格好、まぁた子供たちに遊ばれたんでしょ」
緑茶をすすっている傍らでは、さみゅーが同僚たちにからかわれている。何度も見ている光景のはずだが、エレナの口の端はまたしてもむずむずしている。
ところで、さみゅーと戯れている同僚の女性二人はどちらも普通の人間である。ついでに言えば、この自然公園は人間が設け、人間が管理し、人間の来訪者を迎えることを前提にしていた。
それならば、である。何故、この“人語を操る小動物”であるさみゅーは履歴書と職務経歴書を携えて面接に赴き、怪しまれることなく人間と面談、人間に採用され、人の間で普通に働き、先程の親子連れもそうだったが、初対面の人間にも端から受け入れられ、更には当公園の人気者となり得ているのか。
彼もまた“メル変”なのであった。
プログラムで使った道具を片付け終えて、さみゅーはノートパソコンに向かい事務仕事をやり始めた。その様子をエレナが眺めている。四つ足歩行獣の前脚による、滑らかなタイピングの実践であった。
エレナは投げ遣りな笑みを口許に浮かべる。「なんてしなやかな肉球だ」この小動物の手先は器用だった。あの手の込んだ四輪の台車も、彼の作なのである。
「お望みなら、ぷにぷにしてもらってもか、構わないんだな…」体毛に密に覆われているはずの小動物の頬が、ほんのり色付いて見えた。
「同僚のおねーさんたちにしてもらい」エレナはにべもなかった。
やがて閉園時間が訪れた。同僚の一人は通勤の手間を省くため、今夜はここへ泊まると言う。さみゅーは帰宅組だった。「僕も泊まった方が楽なんだけど、少しでも引っ越しの準備を、進めておきたいんだな…」
「おう、感心!」それを聞いて、エレナは悪びれた様子もなく言う。
「…はぁ〜ぶるぶるぶるっ」本当に悪びれていないのが分かっているので、さみゅーは寒い溜息をついた。
エレナは本日何度目かの好意で公用車に便乗させてもらうことになった。片田舎に在る自然公園からは、電車の便の良い駅へ行くのも一苦労だ。ここで働くインタープリターたちの、頼りになる足だった。
冬の日の入りは早い。ましてや、周囲が山に囲まれたこの場所なら尚更だ。天頂にぽつぽつ現れ始めた星々に見送られ、エレナたちは森を後にした。
3.
万年日曜日な割には戦力になっていないエレナであったが、今日・明日は他の二人と一匹も揃っている。皆で申し合わせ連休を取ったのだ。この二日間で、滞りがちだった引っ越し作業を一気に進めるつもりだった。
朝も早くから精力的に作業を進めていた。庭に出てきた風太は、抱えていたがらくたをどさっと片隅に投げ捨てる。引っ越しの後、この家は解体されてしまうので、不要な物はそのまま屋内に放置しておいても構わないことになっていた。しかし、全てを放置しておけば今度は梱包作業の邪魔になってくる。スペース確保のため、特にかさばる物はこうして庭の一角に集めていた。
処分する物ばかりとは言っても、それらに思い出が無い訳ではなかった。積み上げられた品々を眺め、風太はちょっと懐かしく思っている。
「ああ、いたいた」エレナがすたすたとやって来た。振り返った風太を無視して隣に並ぶ。「メル変のみんなー。そんなとこに紛れてると捨てられちゃうぞー」
すると、がらくたの隙間という隙間から“穴”とか“開閉”とか“表裏一体”とか、とにかくそうとしか形容の出来ない連中が、わらわらわらわら出てくるわ出てくるわ。
「や。遊んでる奴らは処分されちゃってもいいから」こめかみの辺りに十文字形の青筋をぴくつかせ、風太は言った。
「ほう。それらの手も借りたいとゆーのかね、怪好クン」瞬き一つの間に、穴や開閉や表裏一体などにわらわらわらわらと纏わりつかれた風太を指して、エレナは言った。
「我が身の不明を痛烈に悟りました」開閉たちと一緒に半ば穴に落ち込みつつ、風太は泣くしかない。
「ま、仮に落ちたところで表裏一体っ子と一緒なら、また表に出てくるだけなんだけどね〜」
「ああ、いました」今度はリンがとことこやって来た。「皆さん、お昼の用意ができましたよ」
風のように去るエレナとリンとメル変たち。風太はただ一人、取り残された。
「…はっ! なに寂しさを感じてるんだ、俺は!」愕然とする風太の目前を、小型のクラゲみたいな奴がけらけら笑いながら通り過ぎ、窓をすり抜け、屋内へ消えた。
各自今後の作業に気を取られているためなのか、沈黙がちである以外はいつもの食事風景であった。台所の壁一面には、透き通った薄青の細長い触手が相も変わらずびっしりと生えている。それらは海底の生き物みたいに普段は頼りなく揺れていて、時折稲妻のように素早く伸び縮みし、その先端を本体らしき部分へ運んでいた。触手の間には、うっかり触れると青や黄色の煙を吐いて逃げる楕円形の奴も潜んでいる。同じ暗がりから、じっとこちらを見詰めている生気の無い目玉も幾つかあった。
「エレちゃんと小動物はこれから作戦会議だから」気忙しい食事を終え、風太が立ち上がりかけた時である。エレナがそう言った。「作戦会議?」風太は聞き返す。
「新居にメル変っ子たちを無事に移動させる、手順について」彼の方を見もせずにエレナが答えると、彼女と向いあって席を取っていたさみゅーが、意味あり気に口の端を持ち上げた。
「余す所無くお任せします」風太はそそくさと、今度こそ席を立った。
「僕の勤め先の森に、引っ越しを斡旋したんだけどな…」ドアノブに手をかけた時、それが聞こえてきた。風太の左耳が意志に反して肥大化する。
「でも、応じたのは12種726メル変ほどで…メル変減らしには、あまり役立たなかったんだな…」
「一割弱かぁ。やっぱメル変行列を指揮する事になるのかなぁ」エレナは腕を組み、難しい顔で何かの一覧表を睨んでいる。
森へ引っ越しって、メル変の生息域を大胆に広げるですか? 行列って、百鬼夜行のことでしょうか?
「大丈夫ですよ…この国は、八百万の神様の国なんですから…」
いつの間にか背後にすり寄ってきていたリンに、耳元でそう囁かれた。風太の両目から目の幅涙が溢れ出た。
「風太」隣にいた姐御が声を掛けてきた。
「…ん?」一番カウンターの席で風太は我に返る。呼ばれるまで、ぼぉっとしていたらしかった。
「どうした、仕事中に…ゆうべ夜更かしでもしたのか?」怒るよりも心配する口調だった。覗き込むように風太の目を見てくる。少し赤いと見て取った。
「いや、そうじゃないんだけど…ほら、今度引っ越しするって前に話したじゃん」
「ああ、言ってたね」
「日取りを考えるともうあんまり余裕も無いから、昨日、一昨日とかなり作業を詰めたんだよね。それでちょっとね」風太は生あくびを噛み殺した。
「終わりそうもないの?」姐御は椅子を風太の方へ回し、脚を組んだ。本格的に話を聞こうとする姿勢だ。
「う〜ん…」フィット感のあるパンツスタイルが見せるその美しいラインに、普段ならちょっと胸ときめかすところだ。だが、今の風太にそんな若さは無い。「なぁんか釈然としないんだよなぁ」
「何が?」
「それがさ、新居に持って行こうとしている物のでたらめな多さに、梱包を始めてから初めて気が付いたんだよね」
「ん?」姐御は背もたれに体を預け腕を組む。「最初に見当つけなかったの?」
「つけたよ。要らない物は全部処分して、これなら追加で段ボール箱貰わんでも間に合うかなーって、これはかなり正確に見積もったべ?」
「…良く分からん」
「当事者も分かってないから」風太は自分で肩を揉みながら溜息をついた。「昨日、一昨日で目処をつけるつもりだったんだけどなぁ。それが頂上の見えない、山の麓に立った気分」
「ふ〜む…で、話は戻るけど、終わりそうなの?」
「終わらせる」力無くではあるが、一応言い切る。
「まあいいけど…人手が足らない時は遠慮なく言えよ? 昼飯ぐらいで手伝ってやるから」姐御は風太の顔を見詰めながら言った。
「当てにはしてるけど頑張ってみるよ。できればこんなことで、姐御の手を煩わせたくはないからね」ただでさえ姐御には普段から世話になっている。これは風太の本音だった。
今日は小動物が居なかった。仕事と、引っ越し希望者の引率とか言っていたような気がするが、風太の記憶は意識的に曖昧である。
そのような訳なので、とにかくその時に投入できる人手を使って今日も梱包作業を続けている。昨日も一昨日も続けている。仕事が有ろうが無かろうが、もうかれこれ二週間以上、段ボール箱を組み立て、詰め込み、積み上げるを、連日深夜までただひたすらに続けている。それでも梱包すべき物は一向になくならない。
段ボール箱が足りなくなり、引っ越し業者に追加を頼むのは今日で何度目であろうか。追加は有料だから業者も表立っては何も言わないが、受話器の向こうから聞こえてくる感じでは、いい加減訝しみ始めているらしい。
今日も一日、梱包の経験値だけが上がった。
今日はインターホンのスピーカーから聞こえてきたファンファーレを背に、風太の眼窩はますます深く落ち窪むばかりである。
「おい、風太」
「……あ?」肩を揺すられ、目が覚めた。
「もう昼休み終わるぞ」彼の傍らに膝をついた姐御が呆れたように言う。
この図書館の事務室内の一角には三畳ほどの和室がある。風太ら業務委託のスタッフは、昼食時にその和室を使わせてもらっていた。風太は昼食後、体を倒すのも大儀そうに畳に横たわると、一分も経たない内に寝息をたてていたのだった。虚ろな目で姐御の顔を見詰めた後、目をしばたたかせ、だるそうに体を起こす。
「辛いならもう少し休んでるか?」軽く溜息をつきつつ、姐御が言った。
「いや、平気…」伸びをしかけたが、それすらも体力が続かないようで、中途半端な仕草になる。
「相当疲れが溜まってるみたいだな」姐御は腕を組み、睨むようにして言う。「でも、引っ越しの方はもう一段落したんだろ?」
「いや」
「え? 何か問題があったのか?」
「ある」風太の声が若干低くなった。「梱包が終わらない」
「ええっ」姐御は切れ長の目を、ほぼ真円に見開いた。「だってあんた…もうかなり前から、毎日遅くまでやってるって言ってたじゃん」
風太の周辺だけ不意に重力が増した。首が横に曲がり、重く厳しい音を立てる。
「いや、あのな…」触れちゃいけないことだったのかと思いつつ、それでも姐御は言わずにいられない。「あんたの家、どんだけ物があるんだよ…」
「わかんね」口と鼻から鮮血を垂らしつつ、風太は力無く呟く。「なんか最近、雲や霞でも詰めてるんじゃないかって気がしてね…」
「…卦好義弟はどうしたんだ?」
和室の隣は給湯室になっている。コーヒーを淹れに来たらしい館長が、こちらの様子に気付き、声を掛けてきた。
「いや、私にもさっぱり」軽く頭を抱えながら姐御は応じる。「取り敢えず少し休ませるから。館長も了解しといて」
梱包済みの段ボール箱が、この家の部屋という部屋、廊下という廊下をほぼ埋め尽くすに至り、風太の堪忍袋の鋼の緒もついにぶち切れた。
「みなさん」集合をかけたので、居間に畳一枚残った現時点でのこの家最大のスペースに、必然的に3人と1匹が窮屈に集合していた。風太はやつれて髑髏と大差無くなった、凄まじい顔で言葉を吐く。「最初の申し合わせ通り、要らない物、ほんとぉ〜〜に全て処分しましたか?」
「した」
「しました…」
「したんだな…」
全員、表情一つ変えずに頷く。
「ならばっ!」大口を開けた拍子にグリンと目玉が裏返った。「こんなにも、こんなにも、こ〜んなにも梱包し尽くしたというのにっ! 何故にまだっっ! 梱包する物が残っているのかね〜っ!?」半ば屍の、神が作りたもうたままの魂の叫びだった。
「そりゃ詰める物があるからだよ」エレナがあっさりと問題を解決する。
「そりは嘘です。こんな大荷物、この家に有ったはずがありません」風太の体は、今はもう土に帰りつつある。「ほんにもー、あんたら一体何をした? 雲や霞や幻を人様に運ばせようとでもいうのか」有機物を豊富に含んだ土くれから、くぐもった声が聞こえてきた。
「…」風太のその疑義を受けた小動物の、普段から諦念しか映していような瞳にらしくない光が閃く。
「なんだ小動物」土くれの一部が、訝しむようにぽろりと崩れた。
「…風太。メル変っ子にはいろんな子が居んのよ?」呆れたように溜息をつき、エレナが答えた。
「無論…」さみゅーが後を引き継ぐ。「雲や、霞や、幻のごとき…」
恐ろしいほどの光の海の中に、一瞬、彼らの姿が掻き消えた。直後、土くれに一条の稲妻が突き刺さる。
「…って」新生したばかりの風太は上手く言葉が出てこない。暫く口をぱくぱくさせていたが「そ、そんなもん、人に梱包させてたというのかーっっ!!」上半身の筋肉を岩のように隆起させ、叫んだ。
「他にもやね」エレナはごくマイペースに、一枚の紙片を風太に手渡す。
「…なんです、これ」つい眺めてしまえば、それは何かのモノクロ写真だった。
「電子顕微鏡写真。ちょっとつてを頼ってね」
聞き捨てならないことを聞いたようだったが、風太はそれどころでない。「ここに写ってるの、見てはいけなかったものではありませんか?」超人の肉体が見る見るしぼんでいった。
「微生物タイプのメル変っ子たちだよ」可愛いでしょ、と笑顔で訴えてエレナが説明する。
「この家の中にごく普通に漂ってるんだな…息をするたびに、体内にしこたま吸い込まれ…」写真を覗き込みながら、小動物が詳らかにした。
「あと、壁に棲んでる触手っ子の餌にもなってるけどね」
「大丈夫ですか…?」鳥についばまれ始めた風太から大きな翼を追ってやりつつ、リンが心配した。
「もう分かったと思うけど、そういう子たちって自力じゃ移動出来ないでしょ?」それ故の、飽くなき梱包なのであった。
「…この間、作戦会議とかでメル変行列がどうとか言ってませんでしたか?」健気にも、風太は抵抗を試みた。
「だから、それは自力で移動出来る子たちだけの話だよ」諭すようにエレナが言う。
「ならばそういった方々の、互助の心に期待したらいかがでしょう?」涙ぐましくも、風太は妥協案を提出してみる。
「それが出来ればな…そもそもお互いに助け合うという概念自体、メル変者の多くが持ち合わせていないんだな…」
「風太さん…」絶望の沼に沈みゆく風太を救うため、リンが声を掛けた。「雲や霞や幻な方々も、ちっちゃい皆さんも、もう少しで詰め終わるみたいですから…」
「…根本的な問題を、思い出させてくれて有り難う」
「はあ?」見当違いに感じられる言葉に、リンは首を傾げた。
「そういう方々をごくふつーに梱包出来ちゃってた、俺って一体…」今、風太を苛むのは、かつてどんな哲人も身に受けたことのない度外れな懊悩だった。
合点がいってリンは嬉しそうに微笑む。「風太さんも、いよいよ私たちに近い存在になって…」
「人間でいたいヨ?」血の目の幅涙であった。
「…」リンは息を飲み、明るかった瞳を見る見る潤ませる。
「私に種を超える気概などございません」風太は努めて冷静に対処した。そうすべし、との予感があった。
「その通り、エレ様の手管です…」てろん、と舌を出すリン。
風太はエレナに向かい、くわっと牙を剥いた。
「今の一息で億は吸い込んだかな〜?」エレナはにやにや笑っている。
「吸い込んだんだな…」優秀な側近を思わせる事務口調で、さみゅーが確言した。
風太は量子化し、不意に吹き込んできた隙間風に、何処ともなく運ばれていった。
4.
その後も紆余曲折を経まくること、幾日かあった。
しかし今日、ついに引っ越し業者がやって来て、全ての荷物を運び出していったのだった。この家はこんなに広かったのかと思わず錯覚する。今はもう、がらんとした屋内に、舞い上がった埃が傾いた冬の日差しを受け、時折きらめくだけだった。
本来ならこれで一段落のはずであろう。だがここに来て、思いも寄らない新たな問題が急浮上することになる。
「まぁ、普通は思い寄るわきゃ無いやな…」困惑する一同を代表して風太が呟いた。無限遠を見詰める瞳に、自由を求める思いは強い。
「お願いなのであります!」一同の困惑を関心に変えようと、居間が再び懇願した。
事の次第はこうである。数年間、大量のメル変たちに住み着かれたことによって、あたかも鉄が磁化するかのごとく、この家がメル変化した。その家メル変が、殆どの同類が新居に移った今、自分も連れて行けと風太らにせがみだしたのであった。
「他の皆さんを風雨から守る役目である以上、自分の引っ越しが最後になるのは承知しておりました」居間というか、屋内の特定出来ない何処かからの、変なエコーのかかった声で家メル変が切々と訴える。「しかし、全ての作業が完了した今になっても、皆さん誰一人として『さあ、行こう』とお声を掛けて下さらないではありませんか。自分は一人取り残されるのでしょうか? この建物は取り壊され、そうすれば自分も消えるしかありません。理不尽の念を強くするのであります」
「とは言ってもな」風太は自動人形になっている。「無理なもんは、ムリ」家そのものの引っ越しなど、本日大量に過ぎる荷物も爽やかに、プロの仕事で運び去ったあの業者であっても請け負っていないはずであった。
家メル変は食い下がる。「し、新家屋が再びメル変化され、自分とは違う個性が誕生しない内に、私自身が新家屋に移りたいのであります!」半ば叫ぶように言った。
「あんた自身が移る?」その一言がエレナの興味を引いたようだった。「どうやって?」
「簡単であります!」ついに味方を得たかと家メル変は勢い込む。「一触れで構いません。自分自身が、新家屋に接触出来れば良いのであります!」
「この家の何処か一部を取り外して、持っていけばいいのかな…?」小動物が具合的なことを問う。
「そんなことをされたら痛いのであります」一兵卒口調の割には、意気地の無いメル変であった。
「それでは、どうすればいいでしょう…?」リンが考え込む。
「跳ぶのであります」簡単明瞭に家メル変が説明した。
「尻から火ぃ噴いて?」
「いえ。飛行ではなく、跳躍の方であります」女神らしからぬ口にも、家メル変は律義だった。「ご存知ありませんか? 自分、跳躍力にはかなりの自信を持つであります」
「知らん」2人と1匹の視線が集まったと知って、風太は人として発言せざるを得なかった。「両親が買った時は無論ただの家だ、ただの。跳躍力なんぞという、坪単価に出来っこないものは元より無い。あろうはずもない」
「あの…」再びちょっと考え込んでいたリンが口を開く。「跳ぶと仰いますが、この建物ごと跳ぶおつもりですか…?」
「はい!」家メル変は踵を合わせ、敬礼して言った。壁や床がそのように動く。「口幅ったいことを繰り返し申し上げますが、自分は、跳躍力には自信があります!」
「そうですか…」リンは安心したようだった。
「して、お聞きしたいのですが…ここからご新居まで、直線距離にしてどれくらいでありましょうか?」ちょっと顔を寄せ、家メル変が聞く。
「そうさのぉ…2kmくらいかな」エレナが推算した。
「余裕であります!」家メル変は小躍りした。
家メル変の目論見自体は単純なことだった。大方の方位も教えてもらい、先に引っ越したメル変たちの気配を探る。それを目掛けて跳ぶ。新居の上へ落下する。入れ替わり完了である。
「じゃあ、人目の無い、夜更けに決行なんだな…」さみゅーが了承した。
「…ちょっと待て」低い声で風太が割って入る。「新居の上へ落下って、この家ごと跳んでいくのにどうやって被害を出さないつもりなんだ」
「ご安心下さい!」家メル変が背筋を伸ばす。「ご新居に触れそちらへ移動した瞬間、自分は渾身の力でご新居をお守りするでありますっ!」会心の笑みを浮かべる。「自分という守りを失えばこちらの旧宅は驚異ではありません。豆腐のように粉砕せしめてご覧に入れましょう」
「夜更けでも決行しちゃ駄目ーーっっ!!」
こちらも力を振り絞っての駄目出しをすると、誰かが風太の肩に親しく手を置いた。振り向くとエレナが爽やかに前歯を光らせている。「神の奇跡が入り用かな」小気味よく親指を立てた。
「間に合ってます」風太はにべもない。
「その奇跡、どう働くのかな…?」小動物は興味を持ったようだった。
「先ず粉砕時の音を遮蔽すればいいんでしょ。後は破片を残らず捕まえて、またこの場所まで戻して進ぜよう」
「なるほど…」小動物は何かそわそわしている。
エレナは心得顔である。「そこから先はメル変っ子たちに任せるよ。手先が器用な子たちで、一斉に旧宅を復元してよ」
「それならば、この家が突然無くなったとか、解体業者さんが来て仕事無いじゃんとか、騒ぎにならなくて済みますね…」リンは感心した。
手先が器用な、と聞いて小動物がそのしなやかな肉球をわきわきしている。エレナは頷いて「期限は一晩、復元時の指揮官はあんた。どう?」
「任せるんだな…」小動物の口の端が、不敵にめくれ上がった。
「ん? 風太、何処行くの?」取り決めが済んでふと見ると、エレナは彼が部屋を出ていこうとしていることに気付いたのだった。
「メル変な問題はメル変な方々の間でどーぞ」もはや溜息も尽きたといった背中で、風太はドアノブに手をかける。「自分は先に行って、荷物解いてるよ」ノブを回そうとした。回らない。幾度か試みる。頑として回らない。
「御足労など必要ありません。移動は自分めにお任せください」家メル変が、お役に立てる幸せ感を四方に振りまいていた。
「うにゅ! みんなの安全もエレちゃんが預かった!」エレナは莞爾と笑う。「家メル変のキミ。この辺り適当に掃除して、休憩出来る場所作ってよ」
荷物が運び出された直後は埃だらけだった屋内も、家メル変が丹念に掃き出してくれたお陰で、快適に夜更けを待つことが出来た。
風太は居間の柱にもたれかかり半ば脱魂していた。鼻から半分抜けかかっている魂にも、彼の現況を嘆く、深い苦悩の表情が刻まれていた。
そして夜は深まり、エレナはついに頃合い良しと判断した。
跳躍時のことを一応懸念して、各自適当な物へ掴まっておくことにした。脱魂している風太は、もたれかかっている柱にそのままロープで縛りつけた。「艦と運命を共にする艦長さんみたいで、ちょっと素敵です…」リンの琴線が何かにつま弾かれていた。
「さて、用意はいいかな?」エレナが家メル変に確認した。
「いつでもよろしいであります!」古びた家屋に、跳躍のための力が速やかに蓄えられていく。
「じゃあ秒読みね。…ごぉ、よん、さん、にぃ…」エレナが始めると、リンとさみゅーも声を合わせた。「…いち、ぜろっ! 発射ぁーーっ!!」
力が、弾けた。
その途端、予想だにしなかった凄まじい加速Gが3人と1匹を襲った。風太の脱魂が一気に九割九分まで進んだ。寝そべっていた小動物は毛皮の敷物になった。リンは変な声で短く呻き、即座に気を失った。エレナですら危うく白目を剥きかけた。
反作用で地球の公転軌道を僅かに乱した家メル変は、月の無い夜空へ向け、大変力強く離陸した。
どれくらい時間が経ったのだろうか?
風太が目覚めてみると畳の上に寝ていた。いつの間に眠り込んでしまったのか、風太は不思議に思った。背中がごつごつする。体を浮かせて引き抜いて見ると、一本のロープだった。背中に残った傷みが、尚更彼を不可解な気持ちにさせた。
ゆっくりと上半身を起こし、周囲を見回す。古ぼけた蛍光灯が照らす、少し擦り切れた畳。日に焼けた壁。二十年以上を過ごした、旧宅の居間に違いなかった。
意志に反して記憶が戻ってきてしまった。まだ旧宅の中に居るということは、家メル変の跳躍とやらは失敗したのだろうか? 何がどうなっているのだろう。
居間の南側の窓に他の2人と1匹がへばりついていた。窓外はちょっと恐い気がするくらい真っ暗で、時間は余り経過していないのだろうかと思われた。
「エレ様」立ち上がりながら風太は声を掛けた。「何がどうなってるんです?」
「うにゅ」エレナは鷹揚に頷いた。「端的に言うとやね、エレちゃんたちは未だ飛行中である」
「え? それってどういう…」風太は絶句した。近付くことで窓外に見えてきた光景に、二の句が継げなかったのである。
窓の上半分の暗い部分が、実は夜空ではなかったのだと知れた。それは風太が見慣れている、あの過剰な常夜灯に白けたよそよそしさを感じさせるものではなかった。真に黒く、見る者の視線を吸い込む、果て無しの広がりだった。
そして下半分に見える、目に焼き付くような青白さは——地球と思われた。ドキュメンタリー番組などで何度か目にした、暗闇との境が青く霞み、藍色や赤茶の下地に白を重く重ねたり、さっと薄く引き伸ばしてみたりした、あの—
「地球だよ」エレナが頷いた。赤道の辺りに目のはっきりとした台風が見えた。
「感激です。間接的にしか知らなかった光景を、この目で見ているのですから…ああ、この詩興。ぜひ書き留めておかないと…」リンはさっきからぶつぶつ言いながら、膝の上に広げた創作ノートに猛烈な勢いで何かを書き付けていた。余白にまた一つ、鼻血の滴が垂れた。
「何でもね」エレナはうきうきと語る。「跳んだ時、初速がつい第一宇宙速度に達しちゃったんだって」
「でもって、何処かの周回軌道上へ投入も成功したらしいんだな…家メル変の目算では、大体地上400kmくらいだって話だけど…」地球の輝きが眩しいのか、鼻をひくひくさせながら小動物が付け加えた。
風太は弾かれたように部屋の反対側の窓へ駆け寄った。額を押し当てて見ると、凄まじい数の星々の大気に和らげられない荒々しい姿に鳥肌が立った。そしてその星々の間から『無限に広がる大宇宙…』と渋い声のナレーションが聞こえてくる。風太の顎が、音を立てて落っこちた。
「宇宙空間って! あの古びた家でっ!?」一時の驚愕が去り、今度はパニックが風太を襲う。強度は? 酸素の供給と温度調節は? 有害な光線の遮蔽は?
「どうにかなるなら、もうとっくになってるんだな…」しかし他の2人と1匹は、落ち着いたものであった。
「そうそう。家メル変の子、ちゃんと宇宙環境にも適応してくれたから」
「…電灯が使えるのも、その適応ですか」風太が独り言のように呟く。
「うにゅ、水もガスも生きてるよ。あと何故か重力も」こんなことならちょっとは食べ物も残しておけば良かったねーと、この突然の宇宙旅行を少しでも長く楽しみたいらしいエレナは、無邪気に残念がった。
「…」処分するつもりで居間の片隅に置いたままだった、古ぼけた小さなテレビが目に留まった。風太は何となく点けてみる。映った。ちゃんとチャンネル通りの局が入っているようだった。それはニュース番組だった。『卦好家、打ち上げ成功』とテロップが読めた。スイッチに蹴りを入れた。
「我々が純国産有人飛行衛星第一号になってしまったらしいことは、図らずも分かった!」そこは涙を飲んで認めるしかない。「しかし引っ越しはっ! 脇道に逸れすぎですからっ!」
「野暮ねー。ちょっとはこの偶然を楽しもうよ。ほら、リンちゃんみたいにさ」
「うふ。うふふふふ…」リンの琴線を、何かが激しくかき鳴らし続けている。
その時、甲高い金属音が彼らの耳朶を打った。「注意喚起。前方に大型の構造物、接近中」続けて機械的な音声が告げた。
「そんなとこまで適応すなっ!」風太が家メル変に突っ込んだ。
「どれどれ…」エレナが目視で確認しようとする。「…おっ! あれ、国際宇宙ステーションじゃない?」
「地上400kmなら有り得るんだな…」さみゅーも確認する。急速に接近するその巨大な人工物は、確かにエレナの言う通りの物に見えた。
家メル変が国際宇宙ステーションとすれ違う。かなりのニアミスであった。
「あっ!」何かに気付いたエレナが身を乗り出した。「船外活動してる人が手を振ってくれてる! おーーーーいっ!!」
「本当です…」エレナに続いてリンも、夢中で相手に手を振り返した。
「オイそこの宇宙飛行士! 科学のライトスタッフが何あっさりこの現実受け入れてやがんだっ!」両の目玉を円錐形に飛び出させ、聞こえる訳もないのに風太が怒鳴る。
「まぁ、理科離れが進んでるからな…」その宇宙服に取り付けられていた国旗を、小動物は目敏く見ていた。
「そこまでかヨっ!?」
「でもさー」見る見る遠ざかる宇宙ステーションを指さして、エレナが興奮した口調で言った。「今『きぼう』、マジでやばかったよねー」
「ほんと、すれすれでしたね…」
女どもはケタケタ笑っている。
「かーーーーーーーっっ!!」
風太の血の突っ込みは、一人、凍えた宇宙に取り残された。
足早に日が暮れていく。その国の首都の西の端に位置する自然公園にも、徐々に暗闇が迫ってきていた。今日も星がたくさん見えそうだった。
閉館作業で、ビジターセンターの玄関先に出していたウェルカムボードを片付けようとしていた女性スタッフが、ふと空を見上げ歓声を上げた。
「なに?」同僚も釣られて空を仰ぐ。暗くなり始めた空の高い所に、小さいけれどオレンジ色に強く輝く、一つの光の玉が滑るように飛んでいた。
「人工衛星かなぁ」ウェルカムボードにもたれかかり、彼女が言う。
「そうかもね」条件次第で、人工衛星があんな風に見えるという話は同僚も聞いていた。
その人工の星は、多くの楽観と多少の怨嗟を乗せて、今も地球の周りをひた駆ける。
(了)