婚約破棄ですか? では決闘いたしましょう
決闘令嬢シリーズ第三弾です。これだけでもお楽しみいただけます。
長編の息抜きとして勢いだけで作ったシリーズが個人的に楽しくて筆が乗っております。
ノルディア王立学園の卒業祝賀会。
十八歳を迎え、
晴れて成人となった卒業生たちを祝う大広間には、色とりどりの花が飾られ、
軽やかな音楽と楽しげな笑い声が満ちていた。
学園生活最後の夜。
明日からは、それぞれが貴族社会や軍、
官僚機関など、自らに定められた道へ進んでいく。
ヒルデガルト・フォン・ゲルンシュタインも、その一人だった。
鮮やかな赤い髪を高い位置で一つに結い、凛とした金色の瞳を持つ。
令嬢としては長身の、百七十センチの身体を包むのは、
深い紫紺のマーメイドドレス。
腰や胸元には繊細な金糸の刺繍が施され、
その華やかな姿は大広間の中でもひときわ目を引いていた。
ノルディア王国北部、
魔獣が多く生息する辺境を治めるゲルンシュタイン辺境伯家の長女。
幼い頃から領地の騎士たちに交じって武術を学び、
今では魔獣討伐にも参加するほどの腕を持つ。
七歳上の兄が次期辺境伯であるため、ヒルダ自身は卒業後、
婚約者のランベルトとともに王国騎士団へ進む予定だった。
もっとも、そんな経歴を持ちながらも、
ヒルデガルト――親しい者からはヒルダと呼ばれる彼女は、
決して粗野な令嬢ではない。
礼儀作法も教養も、高位貴族の娘として申し分ない。
言いたいことははっきりと言う性格ではあるが、面倒見がよく、友人も多い。
そして今夜も、友人たちに囲まれながら快活な笑みを浮かべていた。
その傍らには、一人の青年がいた。
アッシュグレーの髪に、深い紫紺の瞳。
百八十五センチの長身を黒を基調とした礼装に包み、
襟元や袖には金色の装飾があしらわれている。
ランベルト・フォン・ブルクライヒ。
王国騎士団長の息子であり、ヒルダとは十歳の頃から婚約している青年だった。
卒業後は父と同じ王国騎士団へ進む予定であり、剣術の腕は学園でも随一。
つい先日行われた卒業前最後の剣術大会でも、見事優勝を飾ったばかりである。
「ランベルト、改めて優勝おめでとう!」
友人の一人が杯を掲げる。
「これで三年連続だろ? さすが騎士団長の息子だな」
「まあな」
ランベルトは平静を装っていたが、口元は明らかに緩んでいる。
それを横から見ていたヒルダが、くすりと笑った。
「ずいぶん嬉しそうですこと」
「そりゃ嬉しいだろ。三連覇だぞ」
「ええ。決勝戦も見事でしたわ」
「お前もちゃんと見てたんだな」
「婚約者ですもの。当然でしょう?」
さらりと言われ、ランベルトが一瞬だけ言葉に詰まった。
けれどヒルダは気づかず、手にしたグラスへ口をつけている。
そんな二人を、友人たちは生温かい目で見ていた。
ヒルダのドレスは、ランベルトの瞳と同じ紫紺。
ランベルトの礼装に使われている金色は、ヒルダの瞳の色。
本人たちがどこまで意識しているのかは知らないが、
八年間も婚約者として過ごしてきた二人が互いを大切に思っていることなど、
周囲にはとうに知られている。
当の本人たちだけは、一度も「好き」と口にしたことがなかった。
婚約者なのだから。
卒業後は共に王国騎士団へ入り、いずれ結婚するのだから。
相手が隣にいる未来を、あまりにも当然のものとして受け入れていた。
――少なくとも、この時までは。
「しかし、剣術大会は盛り上がったよな」
別の友人がそう言うと、ランベルトは満足げに頷いた。
「ああ。やっぱり武術は、実際に腕を競ってこそだよな」
「お前は勝ったからそう言えるんだろ」
「負け惜しみか?」
「言ってろ」
笑いが起きる。
ヒルダも楽しそうに聞いていた。
そこでランベルトが、何気なく付け加えた。
「まあ、斧にはああいう大会もないもんな」
ヒルダの笑みが止まった。
「……何ですって?」
友人たちの顔から、笑顔が消える。
一人がそっとグラスを置いた。
「……やばい」
もう一人が小さく呟く。
「始まるぞ」
ランベルトだけが、まだ気づいていなかった。
「いや、だから。斧術大会なんて聞いたことないだろ?」
「それが何か?」
「剣は昔から正式な武術として――」
「ランベルト」
ヒルダはにっこりと笑った。
長年の付き合いがある者なら分かる。
これは、あまりよろしくない笑顔だった。
「まさか、剣の方が斧より優れているなどと仰りたいわけではありませんわよね?」
そんな穏やかな卒業祝賀会の最中、
後に二人の人生を大きく変えることになる、実にくだらない口喧嘩が始まった。
「斧術の大会がないことと、
剣が斧より優れていることに、何の関係がございますの?」
「いや、だって剣の方が速いだろ」
「使い手によりますわ」
「斧は重い」
「それが長所です」
「振り回すのも遅いし」
「だから、使い手によると申し上げています」
「だいたい格好悪い」
ヒルダの黄金の瞳が細くなった。
「あら。剣など、少し武術を学んだ者ならどなたでも一度は扱いますでしょう?
ずいぶんありふれた武器ですこと」
「はあ!?」
今度はランベルトの額に青筋が浮かんだ。
「お前、剣術を馬鹿にしてるだろ!」
「先に斧を馬鹿にしたのはあなたです!」
「俺は事実を言っただけだ!」
「でしたら私も事実を申し上げただけですわ!」
もはや卒業祝賀会で交わす会話ではない。
しかし、八年間この二人を見てきた友人たちは慣れていた。
剣と斧。
馬と徒歩。
肉料理と魚料理。
朝型と夜型。
実にくだらないことで、二人はよく張り合う。
そして一通り言い合ったあと、何事もなかったように並んで帰る。
今日もそうなる。
――はずだった。
「ほんっと、可愛くない女だな!」
「結構です!」
「だったらもう――」
勢いのまま、ランベルトは言った。
「婚約破棄だ!」
その言葉が響いた瞬間、
それまで二人の言い合いを半ば呆れながら見守っていた友人たちの表情が、
一斉に固まった。
ランベルト自身も、言ってしまってからようやく我に返る。
(……あ)
その顔には、今まさに自分が何を言ったのか理解した、と書いてある。
ヒルダも一瞬、目を丸くしていた。
けれど、すぐに表情を戻す。
「いや、ヒルダ。今のは――」
ランベルトが撤回しかけたのをヒルダが遮る。
「そこまで仰るのでしたら、どちらが正しいのか決めましょう」
「待て、ヒルダ」
ヒルダはまっすぐにランベルトを見る。
「では、決闘いたしましょう」
「…………は?」
◇
決闘は、学園の中庭で行われることになった。
ノルディア王国には、古くから正式な決闘制度が残されている。
貴族同士が名誉を巡って争った場合、
決闘によって決着をつけることが認められているのだ。
互いの胸元には一輪の薔薇。
先に相手の薔薇を散らした方が勝者。
武器は申し込まれた側が選択する。
近接武器が指定された場合、
双方が規定内の武器からそれぞれ得物を選ぶことができる。
もちろん殺し合いではない。
剣、槍、斧、戦槌、短剣。
王国にはなぜか、
主要な近接武器ごとに殺傷能力を抑えた決闘専用品が用意されている。
長く続く制度とは、時として妙な方向に充実していくものだった。
「受けて立つ!」
ランベルトは、完全に引っ込みがつかなくなっていた。
「いいだろう! 近接武器なら何でもいい!」
ヒルダが目を瞬いた。
「……何でも?」
「ああ!」
「本当によろしいのですわね?」
「何度言わせるんだ。剣でも槍でも、好きなものを使え!」
ヒルダは数秒、ランベルトを見つめた。
それから、にこりと笑った。
その笑顔を見た一部の者が、なぜか顔を引きつらせた。
「承知いたしました」
そして優雅に一礼する。
「売られた喧嘩は買えと教えられて育ちましたので」
ランベルトの父――王国騎士団長が、遠くで片手を額に当てた。
「……あいつ、今『何でも』と言ったな」
傍らの騎士が頷く。
「はい」
「……馬鹿者」
ヒルダは決闘用武器を管理する係員へ向き直った。
「バトルアクスをお願いいたしますわ」
ランベルトが鼻を鳴らす。
「ほら見ろ。やっぱり斧――」
「二本」
「……何?」
「バトルアクスを二本、お願いいたします」
係員も固まった。
「二本……ですか?」
「ええ」
やがて運ばれてきたのは、決闘用とはいえ相応の重量を持つ大型の戦斧だった。
通常ならば一本を両手で扱う類の武器である。
ヒルダはそれを一本ずつ左右の手に受け取ると、
重さを確かめるように軽く握り直した。
そのあまりにも自然な動作に、ランベルトが初めて真顔になる。
「……待て。それ、二本で使うのか?」
「そう申し上げましたけれど?」
「聞いてねえぞ!」
「聞かれませんでしたもの」
「斧を使うのは知ってたけど、そんな使い方するなんて聞いてねえ!」
「私の得意武器を一度も尋ねなかったのは、どなたでしたかしら?」
言い返せず、ランベルトは黙り込んだ。
審判が二人の胸元へ一輪ずつ薔薇を留めると、
ランベルトは気を取り直すように剣を構えた。
向かい合うヒルダも、左右のバトルアクスを下げたまま静かに重心を落とす。
先ほどまでくだらない口喧嘩をしていた二人の表情から、同時に笑みが消えた。
「始め!」
合図と同時に動いたのはランベルトだった。
三年連続で学園の剣術大会を制した実力は伊達ではない。
鋭い踏み込みから放たれた剣閃が、一気にヒルダの胸元の薔薇へ迫る。
だが、ヒルダは右手の斧を滑り込ませ、その一撃を受け止めた。
がんっ、と重い音が響く。
予想以上の衝撃にランベルトの腕が痺れ、その動きがわずかに止まった。
「っ!」
その一瞬を逃さず、今度は左の斧が横薙ぎに迫る。
ランベルトは咄嗟に身を沈めて刃をかわすと、そのままヒルダの懐へ踏み込んだ。
「取った!」
低い姿勢から剣先が跳ね上がり、胸元の薔薇へ伸びる。
しかし触れる寸前、ヒルダが右手を返した。
斧の柄が剣の軌道へ滑り込み、きん、と澄んだ音を立てて剣先を外へ弾く。
二人はそのまま一度距離を取り、ほぼ同時に構え直した。
「……やりますわね」
「お前こそ」
向かい合った二人の口元に、同時に笑みが浮かぶ。
次に踏み込んだのがどちらだったのか、見ていた者にも分からなかった。
ランベルトの剣が鋭く閃けば、ヒルダは右の斧で受け流し、
間髪を入れず左の斧を振り返す。
ランベルトもそれを紙一重でかわし、体勢を崩すことなく次の一撃へ繋げていく。
重いはずの二本のバトルアクスは、ヒルダの手にあればまるで重さを感じさせない。
左右から休む間もなく繰り出される斧撃を、
ランベルトは正統派の剣術で的確にいなし、
その隙間を縫うように胸元の薔薇を狙う。
けれどヒルダもまた、
鋭い突きを最小限の動きでかわしながら、楽しそうに目を輝かせていた。
「やっぱり剣の方が速いだろ!」
斧を受け流しながらランベルトが叫ぶ。
「まだ仰いますの!?」
「事実だ!」
「でしたら――」
ヒルダが片方の斧を大きく振りかぶった。
「もっと速くして差し上げますわ!」
「望むところだ!」
再び剣と斧が激しくぶつかり合う。
いつの間にか、二人の顔から決闘を始めた時の険しさは消えていた。
ランベルトは挑むように笑い、ヒルダも負けじと笑い返している。
その様子を見ていた友人の一人が、とうとう呆れたように呟いた。
「……あいつら、楽しんでないか?」
「楽しんでるな」
「じゃあ、なんで婚約破棄したんだ?」
誰も答えられなかった。
やがてヒルダは、ランベルトの剣を弾いた勢いを利用して大きく後方へ跳び、
一気に間合いを開けた。
ランベルトも追わず、その場で剣を構え直す。
「どうした。斧じゃこの距離は――」
言いかけたその時、決闘を見守っていた王国騎士団長の表情が変わった。
「……待て」
「団長?」
隣にいた騎士が訝しげに振り向くが、騎士団長は答えない。
視線の先では、ヒルダが右手のバトルアクスを引き、
刃をわずかに後方へ傾けていた。
その構えを見た騎士団長の目が、大きく見開かれる。
「……まさか。《断風》……?」
次の瞬間、ヒルダが地面を強く踏み込んだ。
全身の力を一息に乗せるように、右手のバトルアクスを横薙ぎに振り抜く。
轟、と空気が唸った。
斧そのものは、ランベルトには到底届かない距離にある。
それでも彼は何かを感じ取ったのか、反射的に剣を身体の前へ構えた。
直後。
――きん。
あまりにも小さな音が響いた。
ランベルトの目が見開かれる。
構えた剣の中央に細い線が走り、剣身がわずかにずれたかと思うと、
その先端がするりと滑り落ちた。
からん。
地面へ落ちた剣先を、ランベルトは呆然と見つめた。
手元に残された決闘剣は、まるで最初からそういう形だったかのように、
綺麗な断面を残して真っ二つになっている。
「…………は?」
誰もすぐには声を上げられなかった。
その中で、王国騎士団長だけがヒルダを見つめたまま、掠れた声で呟く。
「……《断風》だ」
「ですが団長、《断風》は剣士が使う技では……?」
傍らの騎士が信じられないものを見るように尋ねると、
騎士団長はゆっくりと頷いた。
「剣を振り抜く速度、軌道、重心移動。そのすべてを極限まで研ぎ澄ませ、
斬圧そのものを遠くへ飛ばす。使い手はごく限られる技だ」
騎士団長自身も、その域へ到達するまで長い年月を費やしてきた。
「私が習得するまでに、三十年かかった」
周囲の騎士たちが息を呑む。
「それを……十八歳で?」
「いや。驚くべきところは、そこだけではない」
騎士団長の視線が、ヒルダの右手へ向けられる。
そこに握られているのは、剣ではない。
通常なら一振りを両手で扱うほどの、巨大なバトルアクスだった。
「あれほど重い武器で、
《断風》を成立させるほどの速度と軌道を作り出したというのか……」
その言葉に、周囲の視線が一斉にヒルダへ集まった。
「斧で、《断風》を……?」
ランベルトは折れた剣を見下ろしてから、ゆっくりとヒルダへ視線を移した。
驚きも、悔しさもあった。
けれど、それらより先に口からこぼれたのは、剣士としての素直な感嘆だった。
「……すげえ」
ヒルダが少しだけ目を丸くする。
けれど、すぐにランベルトの胸元へ視線を移した。
「まだ終わっておりませんわ」
「え?」
「薔薇が残っていますもの」
言われて、ランベルトも自分の胸元を見る。
剣は失った。
けれど、赤い薔薇はまだ一枚の花弁すら散らしていない。
「……あ」
「では、参ります」
ヒルダが今度は左手のバトルアクスを構えた。
先ほどと同じ構え。
それを見たランベルトの身体が、わずかに強張る。
つい今しがた、自分の剣を真っ二つにした技が、
今度はまっすぐ自分へ向けられている。
ヒルダが斧を振り抜いた。
風が、ランベルトの頬を撫でる。
思わず目を細めたが、痛みはなかった。
身体にも、礼装にも、傷ひとつない。
代わりに。
ばさっ。
胸元から、赤い花弁が舞い上がった。
先ほど決闘剣を真っ二つにしたものと同じ《断風》が、
今度は一輪の薔薇だけを正確に散らしていた。
「勝者――ヒルデガルト・フォン・ゲルンシュタイン!」
審判の宣言と同時に歓声が沸き起こる。
ヒルダは左右のバトルアクスをゆっくりと下ろし、軽く息を整えた。
その向かいで、ランベルトは胸元から消えた薔薇と、地面に散った花弁をしばらく見つめていた。
やがて折れた剣を握ったまま、ゆっくりと顔を上げ、ヒルダと視線をあわせた。
「……俺の負けだ。ヒルダ、悪かった」
あまりにも素直な言葉に、ヒルダが少しだけ目を見開いた。
「俺、お前が強いことは知ってた。
斧を使うことも、辺境で魔獣を狩ってることも知ってた。
でも、それだけで分かったつもりになってたんだと思う」
ランベルトは一度、真っ二つになった決闘剣へ視線を落とした。
「剣術大会で勝って、自分は強いって思ってた。
剣が一番だって、本気でそう思ってた。
でも結局、俺は自分の知ってる範囲だけで偉そうにしてただけだったんだな」
「ランベルト……」
「だから、悪かった。
お前の斧を馬鹿にしたことも、あんな勢いで婚約破棄なんて言ったことも」
そこまで言ってから、ランベルトは少しだけ気まずそうに頬を掻いた。
「……それと」
「何ですの?」
「斧、格好悪くなかった」
ヒルダの眉がぴくりと上がる。
「当然ですわ」
「そこは少しくらい謙遜しろよ」
「嫌です」
「ほんっと可愛く――」
そこまで言いかけて、ランベルトはぴたりと口を閉じた。
ヒルダがじっと見つめる。
「……何ですの?」
「いや。今のはもう二度と言わない」
数秒の間を置いて、ヒルダはとうとう堪えきれず、小さく笑った。
◇
決闘の後、両家を交えて改めて話し合った結果、
ヒルダとランベルトの婚約はいったん正式に白紙となった。
勢いに任せた一言だったとはいえ、大勢の前で婚約破棄を口にし、
ヒルダもそれを受け入れた以上、何もなかったことにはできない。
ブルクライヒ騎士団長も、息子にただ一言だけ告げた。
「自分の言葉には責任を持て」
ランベルトは何も言い返さなかった。
そして卒業後、
ランベルトは本来なら父と同じ王国騎士団へ入るはずだった進路を、自ら変更した。
「ゲルンシュタイン辺境伯騎士団へ?」
その話を聞いたヒルダは、さすがに驚いて目を見開いた。
「ああ」
「どうして? あなた、ずっと王国騎士団へ入るつもりだったでしょう?」
「お前が強くなった場所だから」
ランベルトは今度こそ、誤魔化すことも目を逸らすこともしなかった。
「俺もそこで鍛えてみたい。
自分がどれだけ狭いところしか見てなかったのか、ちゃんと知りたいんだ」
「お父様は何と?」
「話したよ。最後は好きにしろってさ」
そう答えてから、ランベルトは少し照れくさそうに笑った。
「それに、俺……お前に追いつきたいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ヒルダの胸の奥がほんの少しだけ熱くなる。
けれど、素直にそれを顔へ出すのも何となく悔しくて。
「……そうですか」
結局、それだけを返した。
翌朝、ランベルトは王都を発ち、ゲルンシュタイン辺境伯領へ向かった。
◇
それから三日後。
ゲルンシュタイン辺境伯騎士団の訓練場で、
ランベルトは見事に地面へ転がされていた。
「……死ぬ」
「まだ三日目ですよ」
頭上から降ってきたのは、場違いなほど涼やかな声だった。
ヒルダの兄、イグナーツ・フォン・ゲルンシュタイン。二十五歳。
銀色の髪に金色の瞳を持つ、母親似の儚げな美青年である。
一見すれば戦場などとは無縁に思えるその姿で、
今は通常なら両手で扱うはずの両手剣を、左右に一本ずつ握っていた。
「もう一度いきます?」
にこやかに尋ねられ、ランベルトは地面へ転がったまま首を振る。
「……少し休ませてください」
「仕方ないですね」
イグナーツは残念そうに微笑んだ。
ランベルトは、この三日間で嫌というほど理解していた。
この家はおかしい。
現ゲルンシュタイン辺境伯は、両手剣を左右に一本ずつ持って魔獣を斬る。
その夫人は儚げな微笑みを浮かべながら槍を振り回す。
次期辺境伯である兄も、この有様。
そして妹のヒルダは、二本のバトルアクスから《断風》を放つ。
――俺、ヒルダに追いつく前に生き残れるんだろうか。
本気でそんな心配を始めた時だった。
「ランベルト」
聞き慣れた声が耳へ届き、ランベルトは勢いよく顔を上げた。
そこに立っていたのは、見間違えるはずもない赤い髪と黄金の瞳。
「……ヒルダ!?」
「何ですの、その顔は」
「なんでここにいるんだ!?」
ヒルダは呆れたように目を瞬かせる。
「ここは私の故郷ですけれど?」
「いや、それは知ってる! 王国騎士団は!?」
「ああ。それでしたら辞退しましたわ」
あまりにもあっさりと言われ、今度はランベルトが固まった。
「婚約もなくなりましたし、私が王都に残る理由もなくなりましたもの。
それに元々、こちらの方が性に合っていますから」
「……そうか」
自分でも分かるほど、声が緩んだ。
ヒルダはそんなランベルトを不思議そうに眺めていたが、
やがて彼の頬に新しくできた擦り傷へ気づいたらしい。
「ずいぶん鍛えられているようですわね」
「誰の家だと思ってんだよ……」
「まだ三日目ですわよ?」
「お前の兄貴、見た目と中身が違いすぎるんだよ!」
「失礼ですね、ランベルト」
後ろからイグナーツの穏やかな声が飛んでくる。
振り返れば、本人は相変わらずにこにこと微笑んでいた。
ヒルダも堪えきれないように笑い出す。
その笑顔を見つめながら、ランベルトはふと口を閉じた。
以前なら、ここで照れ隠しのように何かひとつ憎まれ口を叩いていたかもしれない。
けれど、もうそれで大事なことまで誤魔化すのはやめようと思った。
「ヒルダ」
「何ですの?」
「俺、頑張るから」
いつもとは違う声音に気づいたのか、ヒルダが瞬く。
ランベルトは少しだけ照れくさそうに頬を掻きながら、
それでも彼女から目を逸らさなかった。
「お前の横に立てるくらい、ちゃんと強くなる。だから……待っててくれよな」
ヒルダの黄金の瞳が大きく見開かれた。
八年間、婚約者だった。
いつか結婚するのだと思っていた。
ランベルトが隣にいる未来は、あまりにも当たり前で。
だから二人とも、一度として口にしたことがなかった。
好きだとも、ずっと隣にいたいとも。
言わなくても分かっているのだと、そう思っていた。
けれど、そんな未来は一度なくなった。
だからこそ今、ランベルトが自分の意思で告げた言葉は、
これまでとはまるで違って聞こえた。
ヒルダの頬が、ほんのりと赤く染まる。
「……そうですわね」
「待っててくれる?」
期待するような紫紺の瞳を見つめ、ヒルダは少し考えるふりをした。
それから、いつものように勝ち気な笑みを浮かべる。
「では、私ももっと鍛えませんと」
「……は?」
「追いつけるかしら、ランベルト」
「お前、待つ気ないだろ!」
「さあ?」
「ヒルダ!」
声を上げるランベルトに笑いながら、ヒルダは訓練場の奥へ歩き出す。
すぐにランベルトもその背中を追いかけ、
少し離れた場所では、イグナーツが楽しそうに二人を見送っていた。
一度は白紙になった婚約。
けれど、次にどちらかがその手を取る時は、
家同士で決められたからでも、幼い頃からそう決まっていたからでもない。
今度こそ二人とも、自分の意思で相手を選ぶのだろう。
その日はまだ、ほんの少しだけ先の話である。




