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 グランの図書館には、古い匂いがした。


 羊皮紙と、乾いた木と、長い時間の堆積。レインはその匂いが、不思議と嫌いではなかった。放課後になるたびに足が向いた。最初は「聴者」の話を確かめたかっただけだ。でも気づけば、グランの話を聞くことが習慣になっていた。


 「魔素の海というのは、文字通り海だ」


 グランはランプの光の下で古文書を広げながら言った。紙は黄ばんで、端が欠けている。文字は古い王国語で書かれていて、レインには読めなかった。


 「この世界の地面の下に、広大な海がある。魔素とはその海が蒸発したもの——いや、呼吸したもの、と言ったほうが正確かもしれない。生き物が息を吐くように、海は魔素を世界に送り出している」


 「生き物みたいに」


 「そうだ。海には意志がある。感情がある。少なくとも、聴者たちはそう記録している」グランは古文書の一点を指でなぞった。「この記述を見ろ。三百年前の聴者、エルダ・ヴァインの手記だ。彼女はこう書いている。『海は喜び、海は悲しむ。海が怒るとき、大地は揺れる。海が泣くとき、泉が枯れる』」


 「……でも今の魔法学院では、そんなこと教えない」


 「教えない。なぜなら、そんな話は役に立たないからだ」グランは静かに笑った。「魔素の海に意志があるとわかったところで、魔法は強くならない。位は上がらない。だから忘れられた。百年かけて、ゆっくりと」


 レインはランプの光を眺めた。


 「世界各地に魔素消失空間が広がっているって言ってたけど、それは……」


 「海が、空白を作っているんだ」グランの声が低くなった。「長い年月をかけて、人間は魔素を消費し続けてきた。魔法を使うたびに、海から魔素を引き出している。最初は問題なかった。海は豊かで、人間の消費など取るに足らなかった」


 「でも今は?」


 「今は違う。王国が大きくなり、魔法使いの数が増え、使う魔法も強力になった。海の回復が、消費に追いつかなくなってきている」老人は古文書を閉じた。「海は、空白を作ることで抵抗している。魔素を使わせない領域を広げることで、消費を減らそうとしている。それが、あの廃墟の周りで起きていたことだ」


 「じゃあ、空白は自然に広がっていくってこと?」


 「このままなら、そうだ。数十年後には王都全体が空白に飲まれ、百年後には王国全土が——」グランは言葉を切った。「魔法が使えない世界になる。人々は混乱し、社会の秩序が崩れる。それだけでは済まないかもしれない」


 レインは黙って老人の話を受け止めた。


 「俺に、何ができるんですか」


 「わからない」とグランは正直に言った。「ただ、聴者にしかできないことがある。海の声を聞くことだ。海が何を望んでいるのか、なぜ空白を作っているのか、どうすれば止まるのか——それを知るには、海の声を聞くしかない。そしてそれができるのは、今この世界でお前だけだ」


 その日の帰り道、レインはずっとそのことを考えていた。


 世界を救う、なんて大げさな話だ。自分にはそんな力も意志もないと思っていた。でも、海が悲しんでいる——あの廃墟で感じた、あの温かくて悲しいものが世界の悲鳴だと知ったとき、何かが胸の奥で引っかかった。


 放っておけない、という気持ちが、うっすらとあった。


 それが何なのか、レインにはまだわからなかった。



 調査を始めることにした。


 グランから地図を借りて、王都周辺の魔素消失空間の位置を記録し始めた。毎日放課後に一か所ずつ確認して回る。学院の授業が終わると、レインは地図を片手に街の外れへ向かった。


 ソフィは最初、黙って見ていた。


 三日目の放課後、彼女はレインの隣に並んで歩き始めた。


 「どこ行くの」

 「城壁の南側。空白があるって聞いたから」

 「私も行っていい?」


 レインは少し考えた。「なんで」

 「特に理由はない」とソフィは言った。「でも、一人で行くより二人のほうが安全でしょう」


 それ以上は何も言わなかった。レインも何も言わなかった。二人で並んで歩いた。


 南側の空白は、廃屋の路地裏にあった。建物と建物の間の狭い空間が、すっぽりと魔素を失っている。ソフィが魔法を試みて、何も起きなかったことに顔をしかめた。


 「本当に何もない」

 「俺には聞こえる」


 ソフィが振り返った。「聞こえる?」

 「声、というか……感覚。海が、ここでも悲しんでる」


 ソフィはしばらくレインの顔を見ていた。それから空白の空間に向き直って、静かに言った。「そっか」


 その日から、ソフィはいつもついてきた。



 十日が経った。


 記録した空白は七か所。グランが言った通り、王都の周囲に点在している。レインが感知した限りでは、どの空白も同じ「声」を持っていた。悲しみと、疲弊と、かすかな怒り。


 八か所目を探して城壁の北側を歩いていたとき、レインたちの前に人が立った。


 若い男だった。年齢はおそらく十七か十八。騎士団の制服を着ていて、左腕に輝石位を示す青い紋章がある。顔は整っていたが、目が冷たかった。切れ長の目が、レインとソフィを順番に見た。


 「学院の生徒か。こんな場所で何をしている」

 「……散歩です」

 「嘘をつくな」男はレインの手にある地図を一瞥した。「その地図に記された印、空白の位置と一致している。お前たちは調査をしている」


 レインは黙った。否定できない。


 「騎士団のヴェインだ。この空白の件は騎士団が管轄している。素人が首を突っ込む話ではない。帰れ」


 「騎士団は何かしてるんですか」


 ヴェインの目が細くなった。「何?」


 「空白が広がってるのに、止められてるんですか。俺たちが調査を始めてから十日経つけど、どこの空白も小さくなってない。むしろ少し広がってる」


 沈黙が落ちた。


 ヴェインは何かを言いかけて、止めた。代わりに言った。「お前、魔素感知の位はいくつだ」

 「常石位の下位です」

 「嘘をつくな。今、お前がこの空白から何かを感知しているのが見える。そんな感知の深さは輝石位でも稀だ」


 レインは答えなかった。ヴェインはしばらくレインを見て、それからため息をついた。


 「……来い。話がある」



 ヴェインに連れて行かれたのは、騎士団の詰め所に隣接する小さな会議室だった。


 地図が壁に貼られていて、そこには赤い印がいくつもあった。レインが記録した七か所と、ほぼ一致していた。さらに、レインが記録していない場所にも印がある。王都だけでなく、王国の各地に。


 「騎士団も把握していた」とレインは言った。

 「二年前から追っている」ヴェインは椅子に座らずに地図の前に立ったまま言った。「最初は王都近郊の一か所だけだった。それが今は、三十二か所。増加速度は上がっている」


 「止める方法は?」

 「ない」ヴェインの声は淡々としていた。「魔法では空白を埋められない。魔素を流し込もうとすると、跳ね返される。物理的に何かをしても変化しない。騎士団の優秀な魔法使いが二年間研究して、手も足も出なかった」


 「海の意志だから」とレインは言った。


 ヴェインが振り返った。「何?」


 「魔素の海が、意図的に作っている空白だから。力で押しつぶせるものじゃない」


 ヴェインはしばらくレインを見ていた。「……お前、何者だ」

 「ただの学院生です」

 「嘘だ」

 「嘘じゃない」


 ソフィが横から口を挟んだ。「レインは『聴者』の素質を持っているんです。魔素の海の声が聞けるんです」


 ヴェインの目が大きくなった。それから、静かに元に戻った。「聴者……古文書にある、伝説上の存在か」

 「伝説じゃないです。三百年前まで実在した」


 長い沈黙があった。


 ヴェインは地図を見た。レインを見た。また地図を見た。


 「……わかった。協力する」

 「騎士団として?」

 「俺個人として。騎士団に報告すれば、お前は実験台にされる」ヴェインの声は感情を含まなかったが、その言葉の意味はレインに伝わった。「俺は止めたいだけだ。どんな手を使ってでも」


 レインはヴェインの目を見た。冷たいと思っていたが、よく見ると違う。冷たいのではなく、怒っているのだ。どこかに、静かな、けれど深い怒りがある。


 「……わかりました」



 グランの図書館に三人が集まった。


 グランはヴェインを見て、それから静かに言った。「騎士団か。ま、来るかと思っていたよ」

 「あなたも知っていたのか」

 「この街で魔素の海のことを知っている人間は、わしだけだ。遅かれ早かれ、調査している者はわしのところに行き着く」老人はレインに目を向けた。「で、今日は何かわかったか」


 「空白が三十二か所に増えている。増加速度も上がっている」


 グランは目を閉じた。「やはりそうか」


 「グラン。俺に何ができるか、もっと具体的に教えてほしい。聴者というのは、実際に何をしていたんですか」


 老人は立ち上がり、本棚の奥へ歩いた。しばらく探して、一冊の本を引っ張り出してきた。ぼろぼろの表紙に、かすれた文字で「聴者の記録・第三集」と書いてある。


 「聴者は海と対話した。海の声を聞くだけでなく、海に語りかけることができた。そうすることで、海の状態を理解し、必要なときは導いた——海が暴走しそうなとき、聴者の言葉が海を鎮めた」


 「じゃあ俺も……海と対話できるようになれば、空白を止められるかもしれない」


 「理論上は、そうだ」グランは本を開いた。「だが、そのためにはまず聴者としての力を完全に目覚めさせる必要がある。お前はまだ、海の声を受け取るだけだ。語りかけることはできない」


 「どうすれば目覚める?」


 グランは本のある頁を開いて、レインの前に置いた。そこには図が描かれていた。人間と、その周囲に広がる波紋のような文様。


 「海の核心に触れること。最も深く、最も強く海の声が響いている場所に行き、全力でそれを受け取ること。それしかない」


 「そんな場所が、王都の近くに?」


 グランは少し間を置いた。「ある」



 翌朝、四人は——レイン、ソフィ、ヴェイン、グラン——城壁の東に広がる旧墓地に向かった。


 王都が建設される前からある、古い墓地だ。石碑が立ち並び、雑草が茂り、普段は誰も来ない。その中央に、小さな礼拝堂の廃墟がある。グランによれば、そこが王都で最も海に近い場所だという。


 礼拝堂に入った瞬間、レインは足を止めた。


 これまで感じたどの空白とも違う。ここは空白ではない。むしろ逆だ。魔素がないのに、何かが満ちている。あの脈動が、ここでは全身を包むほど強い。まるで、海そのものの中に立っているような感覚だ。


 「聞こえるか」とグランが静かに聞いた。

 「……聞こえる。すごく、大きい」

 「そこに向かって、耳を傾けろ。抵抗しなくていい。ただ、受け取れ」


 レインは目を閉じた。


 声が来た。


 声、というよりは感覚だ。言葉ではない。でも意味は伝わってくる。痛み、疲弊、悲しみ——それだけではない。その奥に、もっと深いものがある。長い、長い時間の記憶。この世界が生まれてから今まで、ずっとそこにあり続けた何かの記憶。


 そしてレインは、理解した。


 海は怒っているのではない。泣いているのだ。


 人間が悪いと責めているのでもない。ただ、苦しいのだ。長い年月をかけて少しずつ削られて、もう限界が近くて、それでも世界を支え続けていて——そんな、途方もない疲労と悲しみが、波のように押し寄せてきた。


 レインの目から、涙が出た。


 気づいていなかった。泣くつもりはなかった。でも、その感覚があまりにも——


 あまりにも、知っている感覚だった。


 どれだけ頑張っても意味がないとわかっていて、それでも支え続けなければならない。誰にも気づかれないまま、ただ疲れていく。


 母が死んだ日から、レインの中にあった感覚と、同じだった。


 何かが、胸の中で破れた。


 そしてその瞬間、レインの感知能力が——爆発した。


 目を閉じているのに、見える。王都全体の魔素の流れが、まるで地図のように頭の中に広がる。どこに空白があるか、その空白の深さと広さ、それぞれの空白がどのくらいの速度で広がっているか——全部、同時に、正確に、わかる。


 さらに遠く。王国の北の森に、大きな空白。東の港街に、三つの空白。南の山岳地帯に、まだ誰も知らない空白が七つ。


 さらに遠く。隣国に。海の向こうに。


 世界中に、空白が広がっている。


 レインはその全てを、一瞬で把握した。


 「……」


 ヴェインの声がした。「何が起きた」


 レインは目を開けた。礼拝堂の中が、かすかに光って見えた。魔素の流れが、光の筋として見える。これまでは薄ぼんやりとしか感じられなかったものが、今は鮮明に、くっきりと。


 「覚えた」とレインは言った。声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。「世界の全部の空白の位置が、わかった」


 ヴェインが息をのむ気配がした。


 「そんなことが……」

 「あなたたちには魔素消失空間に見えてるけど、俺には見える。それぞれの空白の中に、海が隠れてる。縮こまって、苦しんでる。ここが、その全部と繋がっている」


 グランが静かに言った。「それが聴者の目だ」


 レインはもう一度、目を閉じた。


 海の声がまだ聞こえている。悲しみと疲弊と——でも今、それだけではない何かも感じる。かすかな、ほんのわずかな、安堵のようなもの。


 誰かに、聞いてもらえた。


 ただそれだけで、少し楽になったような。


 「待ってて」


 レインは心の中で、海に向かってそう言った。言葉が届くかどうかわからない。まだ語りかける力はない。でも、それだけは伝えたかった。


 「絶対に、また来る」



 礼拝堂を出ると、夕暮れの空が広がっていた。


 ヴェインが隣に立って、静かに言った。「化け物め」

 「……ありがとうございます」

 「誉め言葉じゃない」でも、ヴェインの声には微かに別の色が混じっていた。「これで、何かできるのか」

 「まだわからない。でも、何かできるかもしれない」


 ソフィがレインの横に来た。何も言わずに、ただ隣に立った。


 グランは礼拝堂の入り口で立ち止まって、空を見上げていた。


 「百年ぶりの聴者が、目覚めた」老人は独り言のようにつぶやいた。「間に合えばいいが」


 レインは空を見た。夕暮れの雲が、遠くに広がっている。


 力がある。それだけはわかった。自分が思っていたよりも、ずっと深いところに。ずっと前から、そこにあったものが、今やっと目を覚ました。


 この力を、どう使うか。


 まだわからない。でも、やってみようとは思っている。


 それは、レインにとって——長い間、ずっとなかった感覚だった。


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