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灰色の日常


 朝の光は、いつも嘘くさいとレインは思う。

 王都アルディスの東側に位置する魔法学院の窓から差し込む日差しは、黄金色に輝いて、まるで今日という日が特別であるかのように教室の床を染める。だが実際には、何も特別ではない。昨日と同じ朝が来て、昨日と同じ授業が始まり、昨日と同じようにレインは何もできないまま一日が終わる。それだけのことだ。


 「レイン。また窓の外を見ている」


 隣の席からソフィの声がした。咎めるような響きではなく、ただ確認するような、静かな声だった。


 「見てない」

 「嘘。先生がもう三回も名前を呼んでいたよ」


 レインはゆっくりと視線を前に戻した。教壇では白髪の教師、マルト先生が呆れたような顔でこちらを見ている。黒板には魔素変換式の計算問題が書かれていた。


 「レイン。答えを言いなさい」


 レインは黒板の式を眺めた。やればできる、というほどでもないが、まったくわからないというほどでもない。頭の中でぼんやりと計算する。


 「……十七・四魔素単位です」

 「正解です。ただし、次からは最初から聞きなさい」


 教室のどこかで小さな笑い声がした。レインはそれを気にするほどのエネルギーもなく、また窓の外に視線を向けた。


 アルディスの街並みが遠くまで見える。石造りの建物が密集する旧市街、その向こうに王城の尖塔、さらに遠くには緑の丘。この世界のどこかで、何かが起きているのだろうか。少なくとも、この教室の中では何も起きていない。


 魔法学院への入学は、アルディス王国では十三歳から義務とされている。魔素量の測定と適性検査を経て、生徒たちは輝石位、常石位、灰石位の三つに分けられる。輝石位は強大な魔法を使いこなし、将来は騎士団や宮廷魔法師として重用される。常石位は一般的な魔法職に就くか、魔法を補助的に使う仕事に就く。灰石位は……まあ、それ以外だ。


 レインの測定結果は常石位の下位、灰石位との境界線上だった。どちらにも属さない、宙ぶらりんの位置。魔法は一応使える。火を起こしたり、小さな風を起こしたり、物を少し浮かせたりくらいは。ただそれだけだ。


 授業が続く。魔素変換の理論、魔法陣の基礎、属性魔法の歴史。レインはノートに文字を書きながら、どこか遠いところにいるような感覚で板書を写した。


 ソフィがちらりとこちらを見る。彼女のノートは丁寧で、色分けされていて、見ているだけで頭が良くなりそうな気がする。魔素量の測定で輝石位下位に分類されたソフィは、学院でも成績上位の常連だ。同じ授業を受けているのに、どうしてこうも違うのだろうと、レインは時々思う。いや、理由はわかっている。ソフィは努力している。毎朝早く起きて自習し、夜も遅くまで練習している。レインにはそれができない。


 なぜできないのか。


 それを考え始めると、いつも同じ場所に行き着く。母のことだ。


 レインが六歳のとき、母は死んだ。病気でも、戦争でもなく、ただの事故だった。街はずれの橋が突然崩れて、母はその下敷きになった。意味のない死だった。誰かのせいでもなく、何かの理由があったわけでもなく、ただ橋が崩れた。それだけ。


 その日以来、レインは何かに全力で取り組もうとするたびに、同じ考えが頭をよぎるようになった。どうせ意味がない、と。どれだけ頑張っても、橋は突然崩れる。どれだけ積み上げても、一瞬で全部なくなる。ならば最初から積まなければいいのではないか。


 わかっている。これは言い訳だ。逃げ道を作っているだけだと、自分でもわかっている。それでも足が動かない。


 父は、レインが物心ついた頃にはすでにいなかった。母と離婚して、どこかに消えた。母の死後、レインを引き取ったのはソフィの両親だった。母とソフィの母は幼馴染だったらしく、「あの子の子供を捨て置けない」とソフィの母が言ったそうだ。レインはそのことに感謝しているが、感謝しているからこそ居心地が悪い。自分はここにいていい人間なのか、という問いが、いつも胸の底に沈んでいる。


 「レイン」


 授業が終わり、ソフィが声をかけてきた。


 「今日、放課後に自習室行く?」

 「……行かない」

 「そう」


 ソフィは何も言わない。責めない。ため息もつかない。ただ「そう」と言って、教科書を鞄にしまう。それがかえって胸に刺さる。責められたほうが、まだ楽だった。


 「ごめん」とレインは言った。

 「何で謝るの」とソフィは言った。「レインが何をしようとしまいと、私には関係ないよ」


 それは冷たい言葉のようで、実はそうではないとレインは知っている。「お前のことをコントロールしようとしていない」という意味だ。ソフィはそういう人間だ。


 「変わりたいとは思ってるんだ」


 言葉が出てきたのは、自分でも意外だった。


 ソフィは少し目を丸くして、それからいつもの穏やかな顔に戻った。


 「うん」


 それだけ言って、彼女は自習室の方向へ歩いていった。



 放課後のレインには行き場がない。


 図書室に行くほど勉強熱心でもなく、訓練場に行くほど向上心があるわけでもない。ソフィの家に帰れば、夕飯の時間まで何をするわけでもなく部屋に転がっている。それならば、と、レインは街の外れをぶらつく習慣があった。


 アルディスの旧市街を抜け、城壁の外側に出ると、人通りが少なくなる。石畳の道が砂利道に変わり、建物が少なくなり、やがて野原と森の境界に出る。レインはそこが好きだった。何もないから、何も求められない。


 その日も、レインはいつものように歩いていた。


 城壁から北に二十分ほど歩いた場所に、古い水車小屋の廃墟がある。レインがよく立ち寄る場所だ。崩れた石壁に背を預けて、遠くの山を眺める。それだけで一時間くらい過ぎることがある。


 廃墟に近づいたとき、レインは足を止めた。


 何かが、おかしい。


 空気が違う。温度ではない。湿度でもない。何か……もっと根本的なところが。


 魔法使いは、魔素の流れを肌で感じることができる。それは生まれつきの感覚で、輝石位は豊かに感じ、灰石位は乏しく感じる。レインの感知能力は平均程度——だったはずなのに、今この瞬間、何も感じなかった。


 完全な無。


 魔素がない。


 廃墟の周囲だけ、まるで切り取られたように、魔素がゼロになっている。


 恐る恐る、レインはその空間に足を踏み入れた。魔素がないということは、魔法が使えないということだ。実際、軽く手を動かして魔法を発動しようとしたが、何も起きなかった。魔素がない空間では魔法は使えない。それ自体は知識として知っていた。


 だが。


 レインは立ち止まった。


 何かが、ある。


 魔素がないはずの空間の中で、レインには何かが感じられた。魔素ではない。もっと深いところにある、何か。脈打つような、鼓動のような、あるいは呼吸のような……とにかく、生きている何かの気配だ。


 それは温かかった。


 悲しかった。


 レインは気づいたら地面に膝をついていた。その感覚が胸の奥まで入り込んできて、呼吸が苦しくなった。泣きたいような、叫びたいような、あるいはただ静かに座っていたいような、不思議な気持ちになった。


 しばらくして、レインは立ち上がった。何が何だかわからないまま、廃墟を後にした。


 振り返ると、廃墟はただの廃墟だった。何も変わらない。でも、あの感覚だけが手に残っているような気がした。



 翌日の放課後、レインは一人で街の古い図書館に向かった。


 学院の図書室ではなく、旧市街の外れにある、石造りの古い建物だ。蔦が這い、看板も色褪せている。入ったことのある生徒はほとんどいない。レイン自身も初めてだった。


 扉を押すと、埃と古い紙の匂いが漂ってきた。天井まで届く本棚が迷路のように並んでいて、薄暗い。奥に小さなランプが灯っていて、その光の中に老人が座っていた。


 白髪で、小柄で、背中が丸い。顔には深い皺が刻まれているが、目だけが不思議と若々しかった。


 「珍しい。学院の生徒か」


 老人は顔を上げもせず、手元の本のページをめくりながら言った。


 「はい。あの……昨日、城壁の外で変なものを見て……」

 「変なもの、ね」


 老人は今度は顔を上げた。その目がレインをじっと見る。値踏みするような、あるいは確かめるような視線だった。


 「魔素がない空間だったか」

 「……知ってるんですか」

 「知っているとも。わしはグランという。この図書館の番人だ。座りなさい」


 レインは近くの椅子を引いて座った。グランはゆっくりと本を閉じて、レインを見た。


 「その空間の中で、お前は何を感じた」

 「……温かいもの。脈打つような。悲しいような」


 グランは少しの間、黙っていた。


 「魔素のない空間に入ると、普通の魔法使いは何も感じない。ただ空虚なだけだ。輝石位でも常石位でも変わらない。魔素がなければ感じるものがないから」

 「でも俺は……」

 「お前は感じた。それは魔素ではないものを感じる能力を持っているからだ」グランは静かに言った。「魔素の海の声を、お前は聞いた」


 「魔素の……海?」

 「この世界の根底にあるものだ。魔素とはその海から湧き上がるものに過ぎない。海そのものは、目には見えない。感知する力を持つ者にしか、届かない」老人の目が細くなった。「そういう力を持つ者を、昔は『聴者』と呼んだ」


 レインは黙って老人の話を聞いた。


 「百年以上、聴者は現れなかった。わしはもう諦めていた」グランは低く言った。「だがお前の目を見て、わかった。お前には聴者の素質がある」


 「俺が……百年ぶりの、聴者」


 言葉にすると、どこか馬鹿馬鹿しいような気がした。自分が特別だとは、どうしても思えない。何の取り柄もない、学院でも中の下の、ただの少年が。


 「信じられないか」とグランは言った。

 「……はい」

 「それでいい。わしも最初から信じろとは言わない」老人は静かに笑った。「ただ一つだけ教えておこう。お前が昨日感じた悲しみ、あれは魔素の海の声だ。世界が、今、悲鳴を上げている」


 レインは老人の顔を見た。


 「世界が……悲鳴を」

 「ああ」グランは窓の外を見た。「城壁の外のあの空白は、始まりに過ぎない。世界各地で同じことが起きている。そしてそれは、少しずつ、広がっている」


 図書館の外では、夕暮れの風が吹いていた。遠くで鳥が鳴いた。


 レインはその日初めて、何かに向かって、少しだけ身を乗り出したような気がした。


 変われるかどうか、まだわからない。でも、このまま何もしないのは違う気がした。それだけは、はっきりとわかった。


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