忘れ得ぬ瞬間、きっとどれだけ経っても
「――まあ。あなたは……」
「!」
垣根越しから声が上がり、急いで振り返ってみて――、息を呑む。
驚いたようにこちらを見ているのは……、軒先に立つ、彼女だった。
春坊は、初めて千代の声を現実に聞いた。
「……」
「……」
時が止まったように互いに見つめ合ううちに、びゅうっと花風が吹く。
はっとして我に返り、春坊は慌てて頭を下げて名乗った。
「そ、それがし、久慈新兵衛が三男、春右衛門と申しまする。ご存じでしょうか? この度、あなたとの縁談が決まった男です。不躾に訪ねてしまい、申し訳ない……」
この先何年経っても思い出しては頭を抱えたくなる、花筏が川面を流れる音にすら紛れてしまいそうな、乙女がごとき震え声だった。
♢ 〇 ♢
誘われるままに屋敷の門を潜って茫々に生えた雑草を踏み分け、春坊は、すっかり歪みの来た軒下に彼女と一緒に腰掛けた。
千代に出された茶を何とか一口飲んで、春坊は悩む。
(……帰ろうか)
先ほどの千代は、春坊の顔を見て酷く驚いたようだった。
さっきは近所の少女を遣わせて彼女が自分に恋の和歌を贈ってくれたのだと思ってしまったが……、恋に慣れない自分の早とちりだったのかもしれない。
急に気恥ずかしくなって、春坊は慌てて言った。
「も、申し訳ございませぬ。
通りで見知らぬ娘に扇を渡され、あなたからかと考えましたが、どうやらそれがしの思い違いだったようです。
すぐに帰りますゆえ、どうか無礼をお許しください」
「まあ……」
こんな風にふいに訪ねられては、彼女もずいぶん戸惑っただろう。
おそるおそる目をやれば、千代は驚いてはいるようだったが、怒っている様子はない。
しかし――どこか怯えているような気がした。
部屋の奥の破れ障子の向こうを窺うようにそわそわと見て、千代は首を振った。
「……そうだったのですね。
それは……、その和歌は、そうです。
あたしから贈ったのです。
急に驚いたでしょう?
あたし、なぜ若いお侍さんがいつもうちの側で立ち止まるのか、ずっと理由を訊こうと思っていたのです」
「あ……」
どきんと、胸が高鳴る。
やはり、勘違いではなかった。
彼女もまた、往来から視線を送る春坊のことを気にかけてくれていたのだ。
(やはり……。やはり、そうだったのか)
嬉しかった。
しかし、何と言おうか――何と答えればいいか。
さすがに、いきなりこの募る想いを告げるのは違う気がする。
けれど、むにゃむにゃと誤魔化すのも、男らしくない。
だいたい、春坊は、嘘やちょろまかしの類のことが一番嫌いなのだ。
知りもしない恋のあれこれについて思い悩んでいると、ふいに障子の向こうでガタガタと物音がした。
「っ!」
びくりと肩を震わせて、千代が障子戸の方へと振り返る。
その様子がどこか不安そうに見えて、春坊は首を傾げた。
(……あちらの部屋に、誰かいるのか?)
考えてから、はっと思い当たる。
もしや、あれはずっと病床暮らしだという彼女の年老いた父御ではないだろうか?
春坊は、急いで千代に言った。
「ひょっとして、お父上でしょうか? もしよろしければ、ご挨拶をさせていただいても――」
早くも春坊が腰を浮かしかけると、慌てたように千代が声を上ずらせた。
「い、いいえ、違います。きっと鼠でしょう。父は、今は眠っております。長く病に臥せっているものですから……」
「そうなのですか? では、こんなところでうるさくしては、お父上の身体に触るでしょう。もう帰りますから」
「いえ、待って……。待ってください。まだいらしたばかりではありませんか。せっかくですもの。もう少し、あなたをもてなさせてください。起きてこの話を聞いたら、きっと父も喜びます」
何か差し迫った様子で千代が言う。
「そういうことでしたら……」
心を寄せる女の言うことには逆らえずに、結局春坊はそのまま頷いた。
が、この先はどうすればいいのだろう?
春坊が何を話していいかわからずにいると、彼女が助け舟を出すように言ってくれた。
「春右衛門様は、もしかしたら……。我が家の軒先から、川向こうの桜を見てみたかったのではないですか?」
「えっ?」
ふいの切り出しに、春坊は目を丸くした。
「ここからの景色が気になられて、いつもうちの前で立ち止まられていたのではないかと、今思いました。
近くで見る桜もいいですが、こうして垣根越しに見るのも悪くないものでしょう?」
少し頬を上げて、千代が続けた。
「どんなものか、気になりますよねえ。だって、あたしみたいな閑な女が始終桜ばかり眺めていますものね」
「いえ、あの、閑だなんて……。さ、桜は綺麗と思いますが……」
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