彼女の幽夢
春坊の叶わぬ切ない恋を察したのか、近隣に住む者がお節介にあれこれ教えてくれたのだった。
♢ 〇 ♢
「……今、何とおっしゃいましたか、父上」
その日、父の新兵衛から話を聞かされ、春坊は腰が抜けるかと思うほどに仰天した。
「何だ、春坊。おまえ、まだ縁談に浮かれておるのか。相変わらず、うぶな奴だなあ。
……日下部家の千代殿との婚礼の日程について話したぞ、父は」
ハハハと快活に父の新兵衛は笑った。
この久慈新兵衛は、貧乏ながら根本からこざっぱりした男だ。
現役時代は町を見まわり取り締まりなども行う与力の配下として活躍した同心だったが、もうすっかり歳を取った。
同心の務めを次男に任せ、今はほとんど隠居しているようなものだが、時折上役に命じられて小働きなどもしている。
春坊の母は父の後妻で、新兵衛よりもずっと年下だった。
新兵衛は、後妻が産んだ末息子の春坊が可愛くてならないらしく、にこにこと笑った。
「日下部殿は俺と同年輩なのだが、病弱だそうでなあ。唐物問屋の商いが繁盛したのも今は昔、店先には閑古鳥が鳴いているそうな。一人娘の千代殿の行く末を大層心配なさっておられるらしい。
だが、その千代殿もどうも巡り合わせが悪い。三度も結婚したのだが、いつも連れ合いに先立たれる。
もういい加減縁談もないと悩んでいると仲介人が言うもんだから、うちの春坊なら心根はまっすぐ、身体は丈夫、剣術馬鹿だが剣の腕は一等抜きん出ているし、何より若い。千代殿より先に死ぬなんぞ絶対にあり得ないと請け負ってきたのよ。
するとな、ちょうど折りよく先方もおまえに目をつけていたらしく、喜んでおったそうだ。これこそまさに、渡りに船の縁談というわけさ。
……と、前にも話したろう? この抜け作め」
「は……。申し訳ござりませぬ、父上」
慌てて、春坊は頭を下げた。
その春坊の下げた頭に、父が言う。
「千代殿はおまえより一回り以上も年上だが、もちろん不満はないのだろうね」
「もちろんでございます。武士に二言はありませぬゆえ」
「ハハハ。おまえはいつもそれだなあ」
「は、はあ……」
恥ずかしくなって、春坊は頬に熱を集めた。
……しかし、本当に父は、縁談の話を持って寄越したあの日も、千代の名前を出しただろうか?
新兵衛は調子のいいところがあるから、どうも怪しい。
だが、父を疑うような真似は春坊はしないのだった。
「父上。それがしは命に代えましても、妻となる方を守ります。どうぞ、日下部殿にも千代殿にもご安心召されるようお伝えください」
両手を床について頭を伏せながらも、まだ動揺は胸から去らなかった。
手が震える。
(まさか、まさかこの俺が、あの千代殿と結婚できるとは――……)
夢のようで、全身がカーッと鉄火のように熱くなった。
「……だけど、春さん。本当にいいのですか。そう焦らずとも、縁談はこれからもありましょう。あまり病弱な御内儀を持っては、困ることもあるやもしれませぬ。春さんは子供が好きだから、ややこもたくさん欲しいでしょうに、どうなることやら……」
母のたまが、心配そうに首を傾げる。
ふっくらとした頬に垂れたどんぐりまなこを輝かせた彼女は、顔の造作のままに好奇心旺盛で感情豊かな女だった。
たまが産んだ子は春坊だけだから、心配で仕方がないのだ。
妻を元気づけるように、新兵衛がこう口添えをした。
「春坊は甘ったれだからなあ。年上のよく世のわかった女の方が合うのよ。おたま、ほれ、見てみい。春坊の瞳を。心はもう決まっているよ。決めたら頑固な奴だ。こうなったら、おまえがいくら心配したって、突き進むのみよ。それが春坊じゃないか……」
案外、父親の方が、息子をよくわかっているものである。
♢ 〇 ♢
千代は、どうやら春坊にとっては理想の女だった。
何しろ、毎夜のように夢に見るほどなのだ。
初めて彼女の夢を見たのは、いつだっただろうか?
……ひょっとすると、あのあばら家で彼女を垣間見るより先だったかもしれない。
この夜の丑三つ刻にも、春坊は千代の夢を見た。
夢うつつの中で、千代が春坊の顔を心配そうにじっと覗き込んでいるのだ。
――春右衛門様。春右衛門様……
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