暗闇の中で
その脛は酷く黒ずんで腐れ、今にも爛れ落ちそうになっていたのだ。
「……!」
やはり、あれは魔性の女だ。
かつて千代が春右衛門にしたように、九郎先生を憑り殺そうとしているのだろう。
しかし、振り返ると、石燕は静かに首を振った。
(よしてやれ)
(ですが、このままでは九郎先生が……)
春右衛門が言いかけた、その時だった。
びゅうと強い夜風が長屋に吹き込んで――、香炉から煙を漂わせていた香木から魔性の火が、ふっと掻き消える。
その途端、九郎先生に寄り添っていた女の身体が、ぐちゃりと音を立てて崩れ落ちた。
春右衛門は、はっと息を呑んだ。
行燈に入っていた炎も消え、部屋が闇に覆われる。
香りが風に散らされて消えた頃には、墓地で嗅いだのと同じ腐臭が部屋に満ちていた。
だんだんと目が慣れ、ゆっくりと部屋の様相が見えていく……。
♢ 〇 ♢
「……うっ……、うっ、うっ。うぅ……」
いつの間にか、細く途切れるような泣き声が聞こえていた。
九郎先生だ。
彼が、小さな子供のように為す術もなく泣いているのだ。
九郎先生は、生気を失って崩れ落ちた継ぎ接ぎだらけの身体から頭を手に取り、女に甘えられていたさっきとはてんで正反対に、彼女にすがりつくように胸に抱きしめていた。
九郎先生が抱いた彼女の頭は――すでに皮膚も肉もすっかり剥がれ落ちて風化し、文字通りの髑髏と化していた。
「……ううぅ……。あ、あぁぁ……。どうして、どうして、どうして……。どうしてあなたは、僕を置いて死んでしまったんです……」
九郎先生が、身も世もなく泣いている。
「ああ、ああああ、あぁ……――」
夜風の唸る音に紛れて、悲痛な慟哭は耐えることなく続いた。
……春右衛門には、とても声をかけることなんてできなかった。
♢ 〇 ♢
「――……あれは【返魂香】という術でな。その名の通り、死者と逢うことができるのだ」※
「返魂香……。あの香炉で焚かれていた、不思議な香りのことですね」
「ああ」
石燕が住むあばら屋敷に帰る気にもなれず――。
当て所もなく夜の町を二人でぷらぷら歩きながら、石燕が頷いた。
二人が並んで歩くその影が、月に照らされて伸びている。
ありがたいことに、二人の影はどちらも人間だった。
石燕が顎に手を当てて言う。
「あの医術先生は、人を殺しているわけじゃねえ。死んだ女から、亡き奥方の身体を造るために綺麗な部分を斬り取っているだけさ。腐れれば墓に返すだろうから、見ぬ振りをしてやりな」
「……」
言われた言葉の意味をしばし考え、春右衛門は顔を上げた。
「……九郎先生は、いつからあんなことを? あのご遺骨の様子では、奥方が亡くなったのは最近のことではありますまい」
「の、ようだな。それでこっちへ流れてきたんだろう」
「と言いますと」
「だからさ。きっと、前に住んでいた場所で死体に狼藉を働いていることが露見しちまったんじゃねえかな。
それでそこへ居られなくなって、ここへ流れて棲み着いたんだろうよ」
――亡き妻の髑髏と一緒に。
春右衛門は首を傾げた。
「それは、前の土地で、九郎先生がどこぞに埋葬された若い女の死体を掘り返していたことが知れたということですか?」
「俺だって、千里眼じゃねえんだぜ? そんな詳しいことまではわからんよ。
だが、まあ、奴は医者だ。大抵は自分が診ている病人が死んだ時に身体の一部を拝借すれば事足りたんじゃねえかな」
「なるほど。道理で……」
三ノ輪で彼と会った時に、確かに九郎先生は言っていた。
病状を診てやっていた患者が亡くなったと。
若い女の患者が九郎先生のもとで死んだ時には、墓を掘り返して持ち運べるように断ってから遺体の一部を借りていたのだろう。
亡き妻に遭うために。
「……では、なぜ此度に限って、患者でない女の死体から腕や脚を盗ったのです?」
「自分の患者にしばらく女の死人が出なかったからだろうよ。亡き妻と逢えぬ夜が続いて、つい思い余っちまったんだろう。江戸の町をさ迷い歩いて、奴さん、綺麗な死体を探していたに違いない」
「……」
宵闇の中を、亡霊のように死体を探して一人さ迷い歩く九郎先生の姿が、瞼の裏にありありと浮かぶ。




