不思議な香りと二人の男女
石燕と春右衛門が向かったのは、彼が住んでいるあばら屋敷の方角だった。
(……む。またあの薫香が漂っているな)
いつからか不思議な香りが鼻を撫で始め、春右衛門は顔を上げた。
どこからか、闇夜にふわふわ浮かぶ淡い煙とともに、馨しい香りが漂ってきている。
これは、いつぞやの晩に嗅いだのと同じものだ。
香炉で濃く焚いたその香のもとへと、石燕はずんずん進んだ。
そして、貧乏長屋の前で足を止める。
そこは――九郎先生が暮らしている一角だった。
「石燕先生……」
思わず声をかけようとすると、石燕が唇に人差し指を当てて息だけの声で『シィ』と囁く。
九郎先生の暮らす長屋からは、いつかの晩のように、楽しげな笑い声が聞こえてきていた。
会話に耳を澄ませば、声の一方は九郎先生で相槌ばかり。
喋っているのはもっぱら、九郎先生と向かい合っている若い女のようだった。
「――うふふ。もう、やだわ。九郎先生ったら」
女の楽しそうな笑い声が響く。
中で行燈を灯しているようで、戸の代わりに使っている質素な破れ障子に二人の影が映っている。
……が。
(影が……、どちらも……!)
春右衛門は、息を呑んだ。
破れや穴だらけの障子に影画のように映っている男女をよく見れば、双方――禍々しい骸骨の姿をしていた。
(これは、間違いなく魔性――物の怪だ!)
思わず春右衛門が刀の鯉口を切ろうとすると、石燕がそれを留める。
(よせ)
そう囁いて、石燕は障子が薄く開いている隙間を指差した。
(中を、覗けと?)
春右衛門が目で訊くと、石燕が頷く。
二人の笑い声は、なおも絶えずに続いている。
漏れ聞こえてくる声だけならば、仲睦まじい男女の晩酌の席にしか思えない。
光の細い帯をこちらに伸ばしている障子の隙間へ、春右衛門はそっと歩み寄った……。
♢ 〇 ♢
「……九郎先生は、相変わらず苦労先生ねえ。訊かなくたってわかるんだから。あなた、また診察料も払えないような患者さんばかり診ているんでしょう」
唇を窄めながらもからかうような声で、女が笑う。
その向かいには、九郎先生が脚を崩して座っていた。
二人の間には、酒と肴の乗った膳が並んでいる。
奥には古めかしい香炉が焚かれていて、あの不思議な香りを部屋に満たしていた。
九郎先生は、女を見つめて困ったように笑い、頭を掻いた。
「ええ、まあ、そうなんです」
「やっぱり。九郎先生らしいといえば、らしいんだけれどねえ」
「参りましたね。あなたはいつも僕のことをお見通しだ」
「当たり前じゃない。あたし、いつだってあなたのことを見てるのよ」
行燈の光に照らされて微笑むその女は、……骸骨などではなかった。
丸い頬には朱が差して、笑窪が浮いている。
女の真っ黒な瞳はきらきら光り、向かい合う九郎先生を楽しげに眺めている。
……が、女の視線を受ける九郎先生は、先立って会った時よりもさらに顔色が悪くなって、頬もこけたように見えた。
女も気がついたようで、案ずるように九郎先生に訊く。
「ねえ、あなた、また痩せたんじゃない? きちんと食べなければ駄目よ。医者の不養生なんて、あたし許しませんからね。外では尊敬されてるお医者様をせっせと看病するあたしの身にもなってみてくださいな」
「はいはい。まったく、僕の奥さんには医者も敵いませんよ」
「まあ。鬼に対するみたいに言って、酷い人。あなたがいつもそうだから、あたし、ご近所さんにきつい嫁だと思われてるのよ」
女の頬が、ぷっと膨れる。
一方、叱られたというのに、九郎先生はますます嬉しそうに目を細めた。
九郎先生が彼女ばかりを見つめているから、口元に運んだ箸からぽろぽろと米粒が落ちた。
「あっ、また零して……。ほら、頬にも着物にもついてるわ。また近所の煩型に、嫁は何してるんだろうねえなんて言われちゃうじゃない」
「そんなこと言う人はこの辺にはいませんよ」
「まあ、そうなんだけどねえ。でも嫌なのよ」
言いながらも、女はにこにこ笑っている。
甲斐甲斐しく九郎先生が零した米を取ってやりながらも、彼女は誇らしそうに答えた。
「あなたはいつも、あっという間にご近所さんを味方につけちゃうもんねえ。あたし、いつだっていろんな人にあなたをよろしくって頼まれてるのよ。まったく、やれやれだわ。言われなくったって頑張ってますったら」
「苦労をかけますね」
「ええ、本当よ。でも……、いいわ。九郎先生の妻になったんだものね。最初から、覚悟しておりますよ」
ぽんぽんと毬が弾むように女が明るく笑い声を立てる。
九郎先生が女を愛おしげに見つめると、彼女はぽっと頬を赤く染めた。
甘えるように九郎先生と視線を絡めて、女がそっと彼の胸に寄り添う。
「あたし……、あなたが好き。大好きよ。ずっと一緒にいてね。浮気しちゃァ嫌よ」
「もちろんですよ。僕には女性はあなただけです」
「本当? あたし、嬉しい……」
心から喜んだように呟いて、彼女が九郎先生の胸に頭を預ける。
その彼女が着た小袖の裾から、細い脹脛が覗いていて……春右衛門はぎょっとした。
その脛は酷く黒ずんで腐れ、今にも爛れ落ちそうになっていたのだ。
「……!」
やはり、あれは魔性の女だ。




