丑三つ時に
「医術を行っていれば、人はいつか死ぬと嫌でも思い知るものですが……。誰かを亡くした後では、後悔ばかりが残るものです。
人が墓参りに来たいと思う時は、得てしてそんな後悔に胸が疼くような時でしょう?」
「……」
九郎先生に問われ、春右衛門は、そうかもしれないと思った。
今だって、春右衛門は後悔している……千代のことを。
春右衛門は、九郎先生に訊ね返した。
「では、九郎先生も何か後悔されているんですか?」
「ええ……。妻を亡くしてからというもの、後悔は尽きません。僕は、彼女のために何もしてやれませんでした。妻は、本当に突然亡くなりましたから」
悲しそうに、九郎先生は西の彼方に沈んでいく夕陽を眺めた。
空にたなびく鱗雲が、次々に茜色に染まっていく。
刻一刻と消えていく陽光が、儚い人の命と重なるような空だった。
この夕暮れが二度とはこの世に現れないのと同じように、冥府に去った人は二度と還らない。
(あの晩は、新しい恋人の女性とずいぶん楽しげにしていらしたが……)
やはり、結婚までした相手のことは忘れがたいのだろう。
九郎先生の孤独な横顔は、新しい恋の喜びにちっとも慰められていないように見えた。
「……患者を救えない日は、己の無力さを痛感します。そのせいか、今日はつい、妻に会いたくなりました」
「そうでしたか……」
「もう日が暮れますね……長く話し込んでしまいました。
では、失礼しますよ。春さん。もう暗いですから、お気をつけてお帰りなさい」
「はい」
子供に対するように言われても、九郎先生が相手だと不思議と腹は立たない。
墓参に向かう彼を見送ると――……。
しかし、九郎先生が引く黄昏の長い影は、やはり骸骨なのだった。
三ノ輪を出て家路に着きながら、春右衛門はふと考えた。
両脚のない死体、両腕のない死体とくれば――。
「……今度現れるのは、頭か胴のない死体なのだろうか」
♢ 〇 ♢
……だが、春右衛門の予想とは裏腹に、それ以降しばらく身体の一部を失った女の死体が上がることはなかった。
兄の新介がお役目の詰め通しからやっと解放されたのは嬉しいが、春右衛門は不思議だった。
春右衛門は、今日は石燕の世話をしにあばら家に来ていた。
襖を一枚隔てた向こうでは、石燕が午睡を貪っている。
石燕が目覚めた時のために夕餉を用意してやりながら、つい考え込む。
(なぜ、新たに死体が出ないだろう? ……女から脚や腕を盗んだ下手人の目的は、もう済んだのだろうか)
そう考えて――はたと気がつく。
……死体は、出たではないか。
三ノ輪に墓参りに現れた九郎先生が、言っていた。
(かかっていた病人が亡くなったと……)
九郎先生は、流れ者達が暮らすこの貧乏長屋街の医者だ。
きっと、亡くなったのは貧しい誰かのはずだ。
おそらく、この辺りの住人だろう。
春右衛門は、目を見開いた。
(……この長屋街で亡くなった誰かなら、葬られた先は決まっている――!)
江戸の投げ込み寺――浄閑寺だ。
♢ 〇 ♢
家に帰って夜を待ち、隣で寝ている兄の寝息をしっかり確認すると、春右衛門はおもむろに起き上がった。
疲れている兄を起こさないように気をつけて、そっと布団を抜け出す。
音もなく障子戸を閉めて、提灯を携えて春右衛門は家を飛び出した。
無我夢中だった。
完全に頭に血が上っていた。
他人事にこんなにも必死になるのは――、もしかすると、どこかで千代の時の後悔を取り返したかったのかもしれない。
今は、丑の刻にも恐れはなかった。
夜の江戸を駆けて、春右衛門は浄閑寺が有する合葬墓地へと忍び込んだ。
腐臭漂う墓地に、不気味な火の玉がちらちら揺れている。
春右衛門は、目を細めた。
「……」
石燕が言うには、あの火の玉のほとんどは、埋葬された遺骸から流れ出た血が燐火となって燃えているのだという。
無論、中には本物の物の怪もいるのだろうが……。
今は、幼子のように怯えている場合ではなかった。
春右衛門は、遮るもののない浄閑寺の墓地一帯を眺めた。
(静かだな……)
さすがにこの夜更けには、あの老僧はおろか、寺仕えの小僧の姿もない。
全速力で駆けてきたから、身体中から汗が噴き出している。
春右衛門の全身から、カッカと湯気でも立っているような気がした。
肩で息をしている自分の声だけが聞こえ、月を遮る叢雲が千切れてはまた光を遮る。
どこからか、水の流れる音が聞こえていた。




