【幽霊】
「ほう。何とも酔狂なお侍さんもいらしたものですな」
「す、すみませぬ。野次馬というつもりはないのですが……」
「いやいや、この世知辛い世にお優しい方もいらしたものだと拙僧は感心しておるのです。
さあ、ついておいでなさい。確かにあの女人は、当寺で弔いました。合葬ですが、まだ場所は覚えておりますよ」
「かたじけない。お願いいたします」
慇懃に頭を下げた春右衛門に、また老僧は目を丸くした。
侍というのは威張っているのが多いから、意外だったのだろう。
春右衛門を先導しながら、老僧は悲しげに言った。
「耳を澄ましてごらんなさい。……ほら、当寺の門前を流れる川音が聞こえるでしょう」
「ええ。聞こえますね」
「時折、拙僧にはあれが、三途の川の音に思えてくるのです。仏道に帰依する者らしくないかもしれませぬが……」
「……」
春右衛門は、しばし黙った。
確かに、さらさらと流れる川のせせらぎが聞こえているようだ。
ここへ葬られた哀れな死者達は、無事に三途の川を渡ることができたのだろうか?
それとも、この坊主が唱える念仏が成就して、無事に成仏できたのかもしれない。
俗人の春右衛門には量りようもなかったが……、そうあってほしいと心で願う。
すると、ふいに老僧が足を止めた。
「――この辺りですよ、お侍さん。卒塔婆の梵字は拙僧が書きましたので、よく覚えております」
「!」
春右衛門は、目を見開いた。
確かにそこは、土を盛られただけの質素な塚がいくつもあった。
筆の墨がまだ濡れているような急ごしらえの卒塔婆が立ち、一つだけ、申し訳のように古い粗末な五輪塔が建っていた。
線香の細い煙を目で追えば、灰色の筋は天を目指した途中で儚く消えている。
どうやら、この辺りは真新しい塚ばかりらしい。
春右衛門の視線を追うようにして一緒に空を見上げ、老僧が言った。
「幽霊、というのがいるでしょう」
「えっ?」
意外なことを口にした老僧に、春右衛門は素っ頓狂な声を上げた。
「和尚は、ああいった物の怪の類を信じておられるのですか?」
……では、この老僧は、石燕と同じく物の怪に近しい者なのだろうか?
驚いて目を瞠った春右衛門に、老僧が首を振る。
「まさか。あれは浮世の者が描いたただの画です。ですが、なぜか幽霊は女人として描かれることが多い」
「そういえば……」
春右衛門は、顎に手を当てた。
無論、物の怪には男も女もいる。
〈幽霊〉というのは物の怪の中の一種類にしか過ぎず、人が死んだ姿を総じるような語感を覚えるのは間違いである……とは、石燕の言葉だ。
石燕がぬる燗に唇をつけながらつらつら語ってくれたところによると、男の物の怪は公的な恨みを募らせているのが多く、女は私的な事情を抱えているのが目立つそうだ。前者はたとえば政争に破れて追いやられた怨霊で、後者は自分を捨てた恋人を恨む物の怪などを差す。
すると、石燕のような画師とは一線を画す仏道に帰依する和尚が言う。
「画師というのは男ばかりでしょう。どうも、女に恨みを抱かれているのではないかと恐れる御仁はいつの世にも多いと見える。胸でも痛むのでしょうかな」
「はぁ……、なるほど」
女の姿に描かれる幽霊は、その疚しさの表れか。
さもありなん――と春右衛門は思った。
どこまでも続く目の前の土盛り塚を数えれば、男の春右衛門でも反論の弁が出ようはずがない。
「幽霊が髪を引きずるのは過去に引きずられておるから。地に足が着かぬふわふわとした浮き姿は、今を生きられぬがゆえ。どこか心許ない顔で手を伸ばすのは得られぬものを欲する執着……とか、巷では語られているようですな」
「よくご存じで」
「祟られたと当寺に相談に来る方は少なくないですから」
「あぁ、そういうことでしたか」
心当たりがあるようなことを仕出かしておいて、仏にすがる。
何とも浮世らしい、人間くさい話だ。
だが、春右衛門も、他人のことを偉そうには言えない。
いつもは信心などそれほどあるわけでもないのに、急に腹を壊した時などは、厠に籠って熱心に神仏にすがってしまう。
(確か、石燕先生も【幽霊】の画は描かれていたな)
あのあばら屋敷で、乱描きを見たことがあった。※
春右衛門は、石燕にも女に恨みを抱かれる覚えがあるのだろうかと、ふと思った。
が、すぐに思い直す。
(彼に限って、それはないか)
石燕は、春右衛門の太刀を拾って大根でも叩き切るようにモノノケを斬る男だ。
空想の恐れの中に幽霊を見たのではなく、きっと彼の鋭い眼が〈本物〉を視たというのが正しいのだろう。
すると、物思いに耽っている春右衛門に、老僧が促した。
「……さあどうぞ、手を合わせてやってください。きっと亡き女人も喜びます」




