新たな死体
「はい。知りたいです。石燕先生」
「……」
……さっき遭った脚を探す哀れな女のことを思い出したのだ。
今は、彼女は恐ろしい物の怪に変じていた。
しかし、本当はきっと、泣いているのだ。
今晩幽夢に視た、あの救いのない闇の中で……。
もしこの画に描かれているのが九郎先生だとしたら、きっと彼も泣いているに違いない。
救いを求める誰かのために、何かしてやりたかった……千代に対して無力だったのと同じ轍を踏むことになるかもしれなくても。
骸骨となって溶けて消えた脚のない女と、骸骨の影を引く九郎先生。
春右衛門には、その二人に何か関係があるような気がしてならなかった。
ただ座して見て見ぬ振りをするなどできない。
頭を下げている春右衛門を見て、石燕はつまらなそうに舌を打った。
春右衛門が言い返してきたらからかうつもりだったのか、興ざめしたような声が蒲団の中から聞こえてくる。
「教えてやらん。知りたきゃ手前で調べるんだな」
♢ 〇 ♢
(――不気味な墓掘り男の画、か……)
石燕の朝餉を用意して、明け方彼のあばら屋敷を出ると――春右衛門は、白々と明け始めた朝の空を見上げた。
濃紺の闇が払われ、世界に光が満ちていく。
夜と朝が交わる払暁はこれほどまでに澄んで清々しいのに、なぜ昼と夜が交わる黄昏時はああも不気味なのだろう?
朝の香気を胸いっぱいに吸って、ふと春右衛門は、九郎先生の長屋の前で足を止めた。
……人の気配はない。
どうやら、九郎先生は留守のようだ。
(では、昨夜はあの恋人らしき女性は来なかったのかな)
あの晩見かけた障子戸の向こうに浮かぶ重なり合った二つの人影と、不思議に馨しい古めかしくて唐風な香。
九郎先生と恋人の弾むように楽しそうだった笑い声を思い出すと、彼が人ならざるモノだとは、にわかには信じがたい。
だが、石燕が描いた禍々しい夜更けに墓を掘る九郎先生に似た男の画を考えると……。
(……もしや、あの脚のない女を殺したのは、捕まった情夫ではなく九郎先生だったのか? 情夫は女を殺したのは自分ではないとか言っているというが、まさかな……)
♢ 〇 ♢
家に帰ると、さすがに瞼が重い。
ほとんど夜通し起きていたようなものだ――それでも何とか早朝の剣稽古を終えて道場に行って帰ると、慌てたように家を出る兄の新介とかち合う。
「……わわっ⁉ あ、兄上?」
「おお、春坊か。悪い、急ぐんだ」
急いで雪駄を履いている新介に、春右衛門は目を瞬いた。
「何をそんなに急いでいらっしゃるのです。例の心中の下手人も見つかったことですし、上役の八木様からは休暇をもらえたはずでは……」
「それが、新たに女の死体が上がったんだ」
「えっ! また女の死体が出たんですか!」
「何でも、今度は腕がないらしい」
「う、腕が?」
「おっと、誰にも言うなよ。また口さがない奴らの暇潰しの種にされちゃ、死んだ女があんまり哀れだ……」
言いながらも、もう新介は玄関を飛び出し、走り去っていく。
急いで火打石をカチカチ鳴らして切り火をしたのだが、遅かった。
兄の背は、もう路地を折れて見えなくなっていた。
「……まあ、兄上は験担ぎなんぞ信じる人ではないからな」
肩を落とし、春右衛門は玄関に腰を下ろした。
「しかし――また新たな死体か……」
新介の懸念はわかるが、巷の噂になるのも時間の問題だろう。
また哀れな女が噂好きの餌になってしまうのはやるせなかったが、人の口に戸は立てられない。
ふと春右衛門は、石燕の家を片づける際につい懐に仕舞って持って帰ってきてしまった、あの破れた墓掘り男の画を取り出した。
習作とはいえ、石燕という稀代の天才画師の手による画が塵のようにただ捨てられてしまうのが忍びなかったのだ。
だが――。
(もしこれが、本当に九郎先生を描いた画だとすれば……!)
眠いのも忘れ、春右衛門は弾かれたように立ち上がった。
石燕が昨夜言ったように、何とか自分の力で調べられるかもしれない。
急に、調べる当てを思い立ったのだ。
春右衛門は、大急ぎで玄関を飛び出した。
♢ 〇 ♢
――大江戸の町には、流れ者が多い。
膨張を続けるこの都は、何時でも何処でも人手不足だ。
『物売りの手は足りてるかァ、荷運びの手は足りてるかァ』と騒いで歩けば、あっという間に声がかかって手間賃が手に入る。
が、宵越しの銭を持たない流れ者の江戸っ子達は、身体を壊してしまえばあっという間に食い詰める。
そうしてとうとう死んでしまって、弔い代も残せなかったような死者達が葬られる場所が、この町にはあった。
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