若き少年武士、久慈春右衛門
久慈家末子の春坊といえば、巡り合わせの悪いことで有名だった。
辻に出ればスリとぶつかって財布を盗まれるし、神田川に散歩に出れば川に落ちる。
捨て猫捨て犬身無し子にはやたらと好かれるが、引き取り手を探すうちに鍛錬に遅れ、剣の老師匠にこっ酷くしかられる。
貧乏武家の末息子だから、家督を継ぐこともない。
子のない他家の養子に入ろうとしたことも一度ならずあるのだが、ちょうど話がまとまりかけたところで縁組先の懐妊が相次ぐと、春坊を子宝明神として養子縁組を持ちかけてくる夫婦が出始める始末。
頬と唇は桜の花びらのようで、つるりとした肌にはあばたの一つもない。
どんぐりまなこは美男子様ではないが愛嬌があるし、声は怒っていても優しくまろやか。
背は小柄なまま伸び悩んでいる。
こんな風に見かけは少女のように愛らしいものだから、まわりからは『春坊、春坊』とこねまわされた。
これも、本人には気に入らない。
「春坊とはなんです、春坊とは。それがしは、もう元服も済んだ立派な武士です。年端もいかぬ小僧ではござりませぬぞ」
声変わりを終えたかどうかも怪しい声でそう憤慨すると、まわりの大人達は嬉しそうに大笑いをする。
「怒った怒った、春坊がまた怒った」
「怒った顔も可愛いねえ、春ちゃん」
こんな具合である。
しかし、生来真面目な春坊は、町人相手でも歳上であれば丁重すぎるほど丁重に接する。
(武士の誇りとは、礼節を固持するところから始まるのだ)
融通の利かない春坊は、己に一番厳しくあろうとする。
けれど、それがまた、まわりには可愛く見えてしまう。
幼い頃からこうだから、もう数えで十五歳になった今も、周囲からは春坊はまだまだ子供に見えるのであった。
♢ 〇 ♢
この春坊にも、勿怪の幸いが訪れた。
縁談、である。
(嫁御料、か)
父に命じられた雑用を果たしに番町の路地を歩いているだけで、浮き浮きと足が遊び、顔がにこにこ緩んでしまう。
(これでやっと俺も、一人前の男になれる)
春坊は、初心な性質だった。
まだ女人に触れたことがない。
年長者達に何度誘われても、遊郭や岡部屋の類には足を向けたことはなかった。
武都たる江戸の町には圧倒的に男が多いから、自然の流れに身を任せていては、一生やもめということも充分にあり得る。
だから、縁談の話を聞いた時は我が耳を疑った。
この貧乏武士の末息子の元へ、わざわざ嫁ごうという奇特な女人がいるとは。
次の瞬間には、彼女がどんな人でも、この命を懸けて大事にしようと春坊は決めた。
……しかし。
少しだけ、胸が痛むことがある。
(……彼女とは、やはり結ばれぬ運命なのだな)
春坊は、この日も何とはなしに本所の先へと足を運んだ。
朱引き前は農村だった辺りにまで出ると、元は百姓町屋だったのを改装した粗末な長屋が並んでいた。
この町外れでは、江戸に流入してきた新参者や訳ありの流れ者達が肩を並べて暮らしているらしい。
散策でもしているかのような振りをして、春坊は、中でも抜きん出て古い百姓屋敷にさり気なく目をやった。
かつてはそれなりの豪農が住んでいたのだろうが、今はずいぶんガタが来ている。
家主は何某かの卸問屋を営んでいるというが、商売の調子はこの屋敷の様子を見れば一目瞭然。上手くいっていないのだろう。
あばら家一歩手前のその古屋敷から、今日もあの女性が、ところどころ歯抜けのある格子窓から外の景色を眺めていた。
(……佳人という言葉は、ああいう方のためにあるのだろうなあ)
春坊は、目を細めてそう思った。
彼女は、まるで美人画に描かれる佳人そのもののような人だった。
真っ白な相貌に、切れ長の瞳と小さな唇。
丸い頬は何とも言えず愛くるしく、品がある。
落ち着いた佇まいや風貌からして、春坊よりもかなり年上かもしれない。
(綺麗な方だ……)
けれど、何故だろう?
彼女はいつも、どこか悲しそうだった。
太い堅格子の窓から通りを眺め下ろすばかりで、彼女が外へ出ているのを春坊は見たことがない。
青白く感じられるほどの白皙を見上げると、もしかすると、重い病を患っているのかもしれない。
それでも、通ううちに時折目が合い、わずかながら微笑み合うのが春坊にはこの上ない幸せだった。
きゅっと胸が衝かれるような甘い痺れを感じ、春坊はそっと瞼を伏せた。
彼女に会いに来るのは……、今日が最後だ。
(……さようなら。どうぞ、お幸せにおすごしくだされ)
もう春坊は結婚するのだ。
たとえ心の中だけでも、浮気はしたくなかった。
胸に秘めた初恋に別れを告げ、春坊は江戸の町を歩いた。
――彼女の名は、日下部千代といった。
春坊の叶わぬ切ない恋を察したのか、近隣に住む者がお節介にあれこれ教えてくれたのだった。




