怪異の夜
「……あああ。ないぃ……。ないぃ……」
幽夢で聞いた声と同じだった。
「……あたしの大事な脚がないぃ……。……あれが、あれがなければ……」
(っ……!)
怖気を立てて、つい春右衛門は腰に佩いた刀の柄に手をかけた。
……が、そこでためらう。
(……駄目だ。すでに人でないとはいえ、彼女は女人じゃないか……)
春右衛門は、顔をしかめた。
女を斬るのは忍びない。
ただでさえ、今も春右衛門は千代を手にかけたことを悔やんでいるのだ。
……たとえ、今この瞬間あの悪夢の晩に戻れたとしても、自分はやはり彼女を斬るだろうとわかっていながらも……。
眉間に皺を寄せ、気休めに鯉口を切りながらも、春右衛門は彼女が見えていないような素知らぬ表情を作った。
それでも尚もガタガタと震えながら、まるで通りの先の辻に待ち人でもいるような顔でまっすぐに歩く。
「……あれが、あれが、あれが……。あれが、あれが、あれが、あれが、あれが、あれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがあれがなければ……。
……さがせないぃ……!」
ずる……ずる……ずる……と巨大蝮が地を這うような音を聞きながら《《それ》》とすれ違ったその時――。
女が、春右衛門を嘲笑うように言った。
「視えてるくせに、ねえ」
「――!」
ぎょっとして思わず春右衛門が目をやると、ニヤニヤと笑うあばたが浮いて造作の悪い女の顔と視線が合う。
そのぎょろりとした目があっという間に落ち窪んで眼球を剥き出し、まるで女が死んで土に還る道程を表した九相図を巡るがごとく、赤い肉や内臓が爛れ落ちて骨と皮だけになり――。
最後は、髑髏とあばら骨を残して地面に溶け入ってしまった。※
(骸骨――……)
その禍々しい姿は、……いつかの夕暮れに見た、九郎先生の背負う不吉な影を思わせた。
♢ 〇 ♢
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
丑三つ時の路地を駆け抜けてようやく石燕先生のあばら屋敷にたどり着くと、春右衛門はバタンと大きく音を立てて戸を閉めた。
激しく肩で息をし、心ノ臓が激しく脈打つ音が耳元で聞こえている。
……どうやら、自分は相当に怖いのを我慢していたらしい。
(……情けない)
ざっと引いた血の気が今は戻って全身を駆け巡り、尻に噛みつくほどに熱い銭湯に浸かったようにぽっぽと火照る。
だが、その熱が生きて怪異を切り抜けたのだという実感を与え、春右衛門はほーっと大きく息を吐いた。
春右衛門が三和土に突っ伏していると、奥の間から呆れたような声がかかった。
「――何でえ。夜更けにうるせえ奴だなあ」
「っ」
春右衛門は、大きく息を呑んだ。
あの夜石燕が振るった太刀筋のようにスパッとした声に、ようやく我を取り戻す。
まだしつこく春右衛門を追いかけてきていた黒い影がぱっと祓い落とされたような心持ちになって、春右衛門はぽかんと口を開いた。
「……あ……。石燕先生」
ほっとして、春右衛門はあばら屋敷の奥へ上がった。
「不躾に申し訳ございませぬ。夜更けにお邪魔いたした……」
すると、行燈の上には貧乏徳利が揺れて、いい具合に温まっていそうな頃合いだった。
彼らしいことだ。
ぬる燗で寝酒でもやろうとしているのだろう。
ふと見れば、案の定、あばら屋敷の主は畳に寝そべって画筆を滑らせている。
先日春右衛門が念入りに片づけたはずの部屋はもう塵の山で、主も塵になかば埋まっていた。
声をかけてくれた石燕は、あっという間に再び画の世界へどっぷり嵌まり込んで、眼を上げる素振りもない。
集中している彼に話しかけてもいいか迷って、春右衛門は音を立てないようにそっと側に腰を下ろした。
と、目を見開く。
「!」
彼が今描いているのは――薄暗い墓場の走り描きだった。
細い卒塔婆から、松が鋭く宙へ枝を伸ばしでもするかのようにめらめらと炎が燃えている。
(これは……。【墓の火】だな)
春右衛門は、顎に手を当てた。
卒塔婆に刻まれた梵字は薄れ、断ったはずの煩悩が黄泉返ってしまったのだろうか……燃え上がっているのは、この世への未練を恋々と感じさせるような白い炎だった。
この題材は、いつだか見たことがある。
確か、石燕が描き終えたまま無造作に投げてある山の中にあったはずだ。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。
※零れ話
今回の零れ話は絵による死体描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
閲覧注意です。
九相図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E7%9B%B8%E5%9B%B3
浮世の煩悩(人間の肉体)に惑わされないように描かれたそうです。
目に見えて触れる分確固たる何かのように見えてしまうけれど、実はそうではない、ということなんでしょうか。




