怖い幽夢
いつの世も、最も深く理不尽の皺寄せを喰らうのは弱い女だ。菜種を搾るように女を搾る人でなしは、穢土から消えることはない。
……と、俗世の抱える矛盾までは、苦虫を噛み潰すような顔をしている新介はともかく、春右衛門にはまだわからない。
しかし、新介のやるせなさが伝染したように、春右衛門も口惜しかった。
「……男は、報いを受けるべきですね」
春右衛門が口を一文字に結んでいるのを見て、新介がはっとしたように微笑む。
「そんな顔をするな、春坊。案ぜずとも、心中は死罪さ。お上がきちんと裁いてくださる」
「そうあれば、死んだ女人も少しは救われるでしょうか……」
「うん。たぶんな」
新介が、やりきれない現実に自分以上に傷ついてしまっている春右衛門の額を小突く。
「さあ、酒も尽きた。おまえさんもそろそろ寝ろ。俺ももう休むから」
「はい……。この度は本当にお疲れ様でした。どうぞごゆっくりお休みください。兄上」
兄の仕事に敬意を表して低く頭を下げ、春右衛門は新介の前を辞したのだった。
♢ 〇 ♢
……つくづく春右衛門は、怖い女の幽夢に縁があるらしい。
その夜、春右衛門は、しくしく泣いている女を慰めてやる夢を見た。
女が、どこぞの井戸端に腰を下ろし、顔を白い両手で覆って泣いている。
悲しげな泣き声を聞いて、春右衛門は娘の側にそっと歩み寄った。
――しく、しく、しく。
「もし、もし。お嬢さん、何がそんなに悲しいのです」
――しく、しく、しく。
「泣いてばかりおられては、何もわかりませぬ」
――しく、しく、しく。
「それがしに、何かできることはありますか」
――しく、しく、しく。
「では、涙が枯れるまで、側にいるだけでよろしいか……」
春右衛門がそう訊くと、女がふと口を開いた。
――……あたし、あるものを失くしたのです。
「あるもの?」
――大事なものです。あれがないと……。
「なるほど。それはいったい何なのです?」
それがしがそれを見つければ、あなたは泣き止むことができますか。
泣いている女性にただ優しくしてやりたいという一心で訊こうとした春右衛門に、女は俯いたまま言った。
――あたしのあし……
「!」
……はっと見れば、確かにしゃがみ込んだ女には――脚がなかった。
ぎょっとして、春右衛門がのけ反ると――。
♢ 〇 ♢
「――‼」
……瞼はいつの間にか開いていて、女の白い顔が瞳に映っている。
……いや、あれは顔じゃない。
夜空に浮かぶ白い月だ。
満月から少し欠けた月は、まるで泣いている女の細面のようだった。
「物の怪……」
ぼんやりと呟いて、春右衛門はガバッと跳ね起きた。
「……っ!」
今のは、ただの夢だろうか……いや、夢にしては出来過ぎている。
ひょっとすると、死んだ哀れな女が春右衛門の夢枕に立ち、助けを求めてきたのかもしれない。
(……石燕先生は、起きておられるだろうか?)
先生は宵っ張りだ。
きっと起きている。
いや、それどころか、筆に興が乗っている頃かもしれない。
彼は、夜が連れてくるこの深い闇を愛しているから。
物の怪に詳しい石燕に助言を得ようと、春右衛門は夜更けの我が家を急いで抜け出した。
今はもう――、丑三つ時とも気づかずに。
♢ 〇 ♢
人気のない路地を、欠けた月が照らしている。
本所の先を目指して歩いていると、……通りの向こうから、何かを引きずるような音が聞こえてきた。
ずる……、ずる……、ずる……、と、地面を擦るような音だった。
「!」
春右衛門は、息を呑んだ。
(……まずい。刻のことを忘れていた……)
いつの間にか、大気がずっしりと重く肌に貼りついている。
湿った吐息を全身にかけられているような、濡れた晩だった。
「……」
嫌な気配に、全身が総毛立つ。
ぞくぞくと肌を粟立たせながら、それでも見ぬ振りはできずに向かう先へ視線をやると――やはりだ。
さっき幽夢で遭った女が、爪を立てるようにして両手で土を掴んで地を這いずっている。
通りの向こうから、こちらを目指して、蝮が這うように、ずる……、ずる……、ずる……、と。
頭から氷水を被ったように、身体中から血の気が引く。
(……あれは本物だろうか?)
それとも、己が恐怖心に踊らされて視ている幻影か。
草木も眠るこの夜更けだ。
まわりには、春右衛門の他に誰もいない。
あれが幻覚か、それとも現実のものなのか、確かめようもない。
すると、か細い声が聞こえてきた。
「……あああ。ないぃ……。ないぃ……」




