文字通りの昼行燈
向かいでちゃっかり彼のご相伴に預かって、春右衛門は顔をしかめた。
「むむ……」
……大急ぎで用意したせいか、大根が生煮えだ。
固いし、辛みも取れていない。
けれど、向かい合う石燕はといえば、そんなことにはちっとも気づいた様子もない。
この画妖先生の良いところは、料理に大した心得もない春右衛門が用意した下手な御前に文句一つ言わないところだ。
……たぶん、食事中になかば眠っているせいもあろうが。
しかし、この文字通りの昼行燈を前にしていると、あの夜目にした妖怪退治の迫力と素晴らしい画力が夢か幻のように思えてくる。
(同じ先生でも、石燕先生はあの九郎先生とは大違いだなあ)
そういえば、いつだか九郎先生がお裾分けしてくれた味噌漬け豆腐は絶品だった。
九郎先生は料理も上手いのだ。
と、九郎先生のことを考えて、はたと春右衛門は止まった。
逢魔刻に見た、彼の不吉な影のことを思い出したのだ。
♢ 〇 ♢
しかし――そのことを話してみると、やっとの目の醒めてきたらしい石燕の反応は意外だった。
「そんなもん、放っとけよ」
「えっ?」
春右衛門は、目を丸くした。
完全に肩透かしだった。
てっきり、彼はこの手の怪談が好きなのだとばかり思ったが……。
驚いている春右衛門に、石燕がひらひらと手を振る。
「どんな影を背負ってようが、その医術先生の勝手だろ。おまえさんも案外野次馬だねえ」
このところ江戸中に涌き出た素人探偵と一緒くたにされ、春右衛門はむっとした。
「そんなつもりではござりませぬが……。
……ということは、九郎先生は危険なモノノケというわけではないのですか?」
庭先の猫又同様に。
だが、以前遭遇した人喰いの飛頭蛮父娘は、正体を現すまではまるっきり人と見分けがつかなかった。
石燕は頷き、春右衛門のどんぐりまなこを覗き込んだ。
「どう見たってありゃ人間だ。おまえさんも物の怪を見慣れりゃ、人と人ならざるモンの見分けくらいはきっとできるようになるだろうぜ」
自分の瞳の中に、石燕の面白がるような顔が映っているのが、見なくてもわかる。
苦い顔をして、春右衛門は唇を尖らせた。
「……あんまり見慣れたくない代物ですが」
往来でうっかり人外に出遭っても、おいそれと腰の刀を抜くわけにもいかない。
そうこうしているうちに石燕先生は、ぐうぐう眠り込んでしまった。
これで朝まで眠ってくれればいいものを、夜中に目を覚ましてはまた画を描き散らすものだから、明日の朝にはまた部屋は散らかり放題に散らかっているのだった。
♢ 〇 ♢
「やれやれ。手間のかかる先生だ……」
ため息を吐いて石燕の腹に薄物をかけ、丑の刻になる前にとあばら家を辞すと、夜空に丸い月が昇っていた。
「……どう見たって人間、か。
では、九郎先生が背負っていたあの人骨のような影は、俺の見間違いかな……?」
そう独り言ちた後で、ふと春右衛門は顔を上げた。
(何だろう? ……どこからか、匂いがするな)
犬のように鼻をすんすん慣らしてみると、やはりそうだ。そう遠くない場所から、不思議な香りが漂ってきている。
それは、これまであまり嗅いだことのない類の香りだった。
どこか異国的……唐風で古めかしいが、湿気ったような風情の中にどこか品格がある。
どうやら、この長屋のどこかで香炭を焚いているらしい。
(この貧乏長屋に、ずいぶん風流な住人がいたものだ)
だんだんと濃くなるその渡来風の古めかしい香りにつられるようにして視線をめぐらせると、そこは――九郎先生が住んでいる一角だった。
(ああ、香りの主は九郎先生だったか)
ならば納得だ。
九郎先生は親切な人だから、診察代もろくに払えないような患者ばかり診る。
けれど、彼の評判を聞きつけて、時にはお忍びで金払いのいい客が来ることだってあるだろう。
この不思議に馨しいお香は、そういう客から贈られた診療の返礼品かもしれない。
彼の長屋には、小さな灯りが点っていた。
どうやら、来客らしい。
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