逢魔刻に伸びる、骸骨の影
春右衛門が言うと、しばし考えてから九郎先生が続けた。
「……実はね。僕も妻を早くに亡くしました」
「えっ。それはまた……」
「そうしてみて思うのですがね。結婚など、そうよきものではありませんよ」
慰めるように、男やもめの九郎先生が春右衛門の肩をぽんと叩く。
春右衛門も、肩をすくめて頷いた。
「そのようですね。浮世というものは、何ともままならぬものです。望んだものほど手に入らないらしい。憧れているうちが花というものなのかもしれませぬ」
「ええ、そのようです。
まあ、春さんはまだ若い。いずれまた、よきご縁もありましょう。あなたはあなたのまま、焦らずいいご縁をお待ちなさればよい」
九郎先生が微笑んで言って、会釈をして去っていく。
教え子でもないのに〈先生〉とつい呼んでしまいたくなるような優しい助言と所作に、春右衛門は感心した。
……が、次の瞬間、息を呑む。
「……⁉」
黄昏に伸びた九郎先生の長い影が――おどろおどろしい骸骨の形をしていたのだ。
♢ 〇 ♢
「――起きておいでですか。石燕先生、モノノケでござ……」
慌てて例のあばら家に飛び込むと、風が吹き抜ける涼しい板の間に茣蓙を敷いて、石燕が寝転んでいた。
「んん……? 何だよ、またおまえさんか。相変わらず騒々しい奴だなあ……」
石燕がそうぼやく。
彼の手もとを見れば、行燈に細く灯を点して、のんべんだらりと筆が動き、画を描いている――これは、庭先をよく散歩している野良猫だ。
その画を見て、春右衛門はあっと目を見開いた。
猫のモノノケというなら有名だ。
春右衛門だって知っている。
その物の怪を眺め、驚いたままに春右衛門は呟いた。
「何と……。
あれは【猫又】でしたか。先生」
「うん。さっきまでそこで遊んでいた」
眠たそうに欠伸を噛み殺しながら、石燕がこともなげに頷く。
彼の前に正座して、春右衛門は首を傾げた。
「で、あれば……。……斬らぬのですか?」
しかし、石燕はひらひらと手を振った。
「ああ。猫は素早いし、面倒くせえからな。それに、奴さんはまだ人を喰らっちゃいねえ」
「はあ……」
石燕が見事に物の怪を斬って捨てるところを見てしまったから、てっきり、彼は妖かしと見れば次々祓う無双の修験者のように思っていた。
だが、どうやら違うらしい。
しかし、描きかけの猫又の画は、これまた見事な筆致だった。
被衣のようなものを頭に引っかけて軒先を二本足で歩く様子は歩く様子は躍動的で、画の中の猫又は今にも次の一歩を踏み出しそうだ。※
画像:鳥山石燕「猫又」 (Public Domain), 出典: Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SekienNekomata.jpg
(今にも動き出しそうな画、か……。この御仁も、俺からするとモノノケ同然だな……)
彼も充分、春右衛門の理解の範疇を越えている。
と、見れば、その稀代の天才画師の頬が、げっそりとこけている。
人外に見えた天才が急にその辺の宿無しと大差ないように思えて、春右衛門は立ち上がった。
「石燕先生。また食事を怠けたでしょう」
「んん? どうだったかな……」
「ご自分でよくお聞きなされ。先生の腹の虫が、悲しそうに鳴いておりますよ」
稀代の天才画師の家庭教師のような顔をしてやれやれと首を振って、春右衛門は外の通りへぱっと出た。
折も折、ちょうどそこで夜鷹蕎が出店を出した呼び込みの音声が聞こえる。
黄昏刻よりは怖くない宵の口の江戸をひとっ走り駆けて、春右衛門はさっとかけ蕎麦を買ってきた。
石燕先生が寝そべったままもそもそと蕎麦を啜っている間に、春右衛門は大急ぎで台所に立って、残り物の大根を風呂吹きに仕立てた。
最近懇意になったお隣さんに味噌ダレを分けてもらって戻って添えて御膳に置くと、やっとのことで石燕先生が起き上がる。
「大根かァ……。タクアンが食いてえなあ」
「お好きなんですか?」
「うん。冬はずっと冷や飯にタクアンだ」
なかば眠っているような寝ぼけ眼で石燕は頷き、でも不思議にしっかりと口と箸は動いている。
向かいでちゃっかり彼のご相伴に預かって、春右衛門は顔をしかめた。
「むむ……」
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