不精者の天才画師
だが、新介は首を振った。
「駄目だ。おまえさんの出る幕じゃねえ」
「ですが、兄上」
「納得しろ、春。
おまえさんにだけは教えてやるが、どこをどう探しても恋人の死体が出ないんだ。
大方、逃げちまったんだろう。
情夫の男を見つけりゃ話は終いさ。恋人の脚を斬ってどこぞへ捨てちまった理由もわかるだろう」
それだけ言うと、新介が疲れたようにため息を吐く。
春右衛門は肩を落とした。
「そうですか……」
ちっとも納得はいっていなかったが、疲れた様子の新介に、さしもの強情者の春右衛門も、それ以上何も言うことができなかった。
新介が臥所に去ると、春右衛門はそっと襖を閉じた。
出ずっぱりでくたくたになっている兄を、あまり困らせるわけにもいかない。
春右衛門は、肩をすくめた。
「……消えた恋人が犯人――、か」
雨後の筍のように現れ出た素人探偵達がいくらあれこれ推理しようが、それが妥当な線というものだろう。
何とも情けない話だが、女と心中しようとして死に切れなかった情夫が雲隠れするのも無理はない。
今や心中は大罪だ。
もしお上に見つかれば、極刑は免れない。
しかし。
「女一人を死なせておいて、臆病風に吹かれて己だけ逃げるとは。まったく、男の風上にも置けん奴だな」
春右衛門も兄と同様に、じきに腰抜けの恋人が見つかってこの騒ぎも収まるものだとばかり思っていた。
……この時はまだ。
♢ 〇 ♢
(――不精者の石燕先生は、昨夜は夕餉をきちんと食べただろうか?)
口うるさい女中のようなことを思って、春右衛門はその日も――奇なる天才画師、モノノケ先生こと鳥山石燕が棲まうあのあばら屋敷へと足を向けていた。
春右衛門がきちんと見張っていないと、かの御仁は食も忘れて画の世界に没頭してしまうのだ。
あんまり顔色の悪い石燕に、無理やり飯を食わせてやったことも何度かある。
画の才は素晴らしいが、それ以外はからっきし。
石燕は、文字通りのまったくの昼行燈なのだった。
春右衛門がせっせと修繕を頑張ったおかげで、あのあばら家もずいぶん住みやすくなってきている。
だが、まだ雨漏りがあるのだ。
当の石燕があてにならないものだから、梅雨を迎える前に春右衛門が何とかせねば、先生の大事な画具も作品も滅茶苦茶になってしまう。
いつものように町を歩いて、春右衛門は思った。
(――さて。今日は狸に化かされないといいが)
……実はこの春右衛門、春に起きたあの飛頭蛮父娘との一件以来、どうにも怪異と親しくなってしまったようなのだ。
鳴屋が聞こえるなどは、もはや日常茶飯事。
誰もいない月夜の障子に影女を見たり、行けども行けども同じ辻に出てしまう白昼なんぞも経験したことがあった。
そういう時は、いつだか石燕に訊いた通りに、春右衛門が気合いを込めて腰に差した脇差をさっと抜くだけで何とかなった。
妖怪というのは、金気――正確には、武士の振るう太刀――を嫌うのだという。
石燕が言うには、千年京の栄えた平安の御世に|渡邉綱《|ルビわたなべのつな》という武士がその頃妖怪の頭領だった酒呑童子を刀でスパッと斬って捨てたのがきっかけで、物の怪どもは総じて、侍の持つ太刀の金気を恐れるようになったらしい。
力の弱い妖怪であれば、春右衛門が脇差を素早く居合抜きするだけで、恐れをなして逃げていく……とのことで、これまで大した目に遭ったことはない。
さすがに夜更けの丑三つ刻を選んで外を歩くほどに度胸があるわけではないが、おかげで、夕暮れの逢魔刻はそこまで怖くなくなった。
♢ 〇 ♢
さてさて、春右衛門にその江戸の夕暮れと縁ができたのは、それから数日後のことだった。
この日、剣術道場での鍛錬の後に老師匠の遣いなどをこなしていたら、いつの間にか日が傾いていたのだ。
物の怪は穢れを好むというから殊更に通うようになった銭湯で汗と垢を流して身を清めると、気がつけばもう、影が長く伸びている。
(ああ、夕方か)
少し足を速めて、春右衛門は朱引き外にある石燕先生の住処へと向かった。




