脚のない女の死体
「……酷えもんだな。こんな若い娘が……」
その真新しい死体を見て――、久慈新介は思わず顔をしかめた。
新介は、町奉行配下与力の八木大治郎が使っている同心の一人だ。
年の頃は、二十代ももう半ば。
父・新兵衛から同心の職を継いで数年、仕事振りの評判は上々だった。
当人としてはあまり嬉しくないのだが、この評価は亡き母にもらい受けた凛々しい精悍な容姿のためもあるかもしれない。
新介は家族思いな男で、最近縁談がおしゃかになった末弟――〈久慈家の春坊〉こと春右衛門のことが心配でならないが、無論仕事中はそんなことは言っていられない。
だんだんと蒸す季節が近づいているせいもあるのだろう。
死体の腐れた臭いが酷く鼻を衝いている。
(それにしても、酷い臭いだな……。何度嗅いでも、この臭いだけは慣れることがない)
胃の中のものを戻すのを堪らえるだけでやっとだった。
場所は、本所。
貞観二年に創建されたという歴史ある神社の総鎮守だ。
その鎮守の森で、粗末な小袖を着た女が自分の胸を抱くようにして地面に伏している。
女の白い首には、赤子の歯のない口腔のような真っ赤な裂け目が走っていた……まるで、死した太い頸動脈までもが見えそうなほどに深く。
「刺殺か。……おや。この女の左手にゃぁ小指がねえな。となると、こいつは娼婦か」
新介の兄貴分の弥七が、顎に手を当てる。
なるほど、確かに女の左手には小指がなかった。
これは女郎が贔屓の男によくやる倣いで、愛の証に自分の左手の小指を相手に贈るのだ。
そういえば、女の死体には、まるで布団でもかけてやるかのように香りのいい松の枝葉が幾本も折られて被せられている。
顔にたかる小虫を手で払って、うんざりしたように弥七が言った。
「心中か。
『この世の名残 夜も名残、死に行く身をたとうれば、あだしが原の道の霜、一足づつに 消え行く、夢の夢こそ 哀れなれ』――。
ってか……」
「……また曽根崎ですか。参ったもんですね」
大坂での実話を基にした〈曽根崎心中〉という人形浄瑠璃が、一世を風靡して久しい。※
その影響で、若い恋人同士の心中が大流行りしているのだ。
作中の心中の舞台は、大坂の天神を祀った神社周辺の森。
それに影響されたのか、この本所に広がる鎮守の森でも心中する男女が絶えない。
こんな困った流行のおかげで、心中物の上演禁止令や心中者の葬儀禁止に加え、片方が生き残った場合には極刑に処すという厳しい法をお上が定めるにまで至ってしまった。
「娘に松をかけてやったのは、やはり下手人でしょうか?」
「だろうねえ。きっと、せめてもの供養のつもりなんだろうよ」
やれやれとばかりに肩をすくめて、弥七がため息を吐く。
「まあ、心中なら情夫の死体もこの辺から見つかるな。新介、探してこい」
「わかりました」
年長の弥七に命じられ、新介は踵を返そうとした。
が、その前にふと女の死体に目を留める。
……何か、引っかかるものがあるのだ。
胸に覚えた違和感の正体を探して、新介は遺体の側に腰を落とした。
「どうした?」
「いえ、どうも気になりまして……」
折られた松の新緑がまだ青々とするのをさっと捲ってみると――、新介はぎょっと目を見開いた。
「あっ」
「これは……」
集まっていた同心仲間も声を上げる。
女が着ている小袖の帯の下が……、不自然にへこんでいるのだ。
赤茶けた血で濡れた平らな小袖の下半分を見て、思い切って裾を捲ると――新介はつい目を逸らした。
「……うっ、うぅっ、うげえっ……!」
同輩の誰かが、堪らえきれずにどこかへ走っていって胃の中の物を吐き散らす。
新介は屈んだままもう一度手を合わせ、それから兄貴分に伝えた。
「……弥七さん。このホトケ、脚がありません」
死体は胸を腕で抱いている。
両脚のないその姿は、まるで――死んだ蝮のようだった。
ここまでお読みくださりありがとうございます!
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最後までお読みいただけたら嬉しいです!
※零れ話
人形浄瑠璃「曽根崎心中」について詳しく書かれたサイトがありましたので、記載します!
ご興味ある方はぜひ読んでみてくださいませ。
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc26/sakuhin/sewa2.html
しかし、「曽根崎心中」もまた冒頭が素晴らしいですね…!
【この世の名残 夜も名残、死に行く身をたとうれば、あだしが原の道の霜、一足づつに 消え行く、夢の夢こそ 哀れなれ】




