綺麗なあなただけを (第一話 完)
「そうだなあ。実に古めかしい歌だ……まるで源氏物語の世界だな。あの爺が言っていた千年の齢というのも、あながちただの大法螺ではなかったのかもしれん」
「……俺なんぞに恋の歌を贈っても、彼女は楽しくはなかったでしょう。意味がわからないから、返歌もできません。情けないことです」
春右衛門が肩を落としていると、石燕が小首を傾げた。
「そうかね」
「え?」
「あの女抜け首は、最期に恋した男がおまえで、幸せだったんじゃねえかな」
「なぜです」
「なぜでもさ。だからもう、そんなに泣くなよ」
そう言うと、石燕先生は懐に手を入れた。
「物の怪というのはなぁ。千年もの時を醜く永らえても、死すれば躯も残らん。
どう足掻いたとて、絶対に人のようには生きられず、人のようには死ねんのだ。
哀れなもんさ。
だが……」
朝陽の輝きが、鮮烈に差し込む。
それと同時に、石燕が、懐から白い紙を取り出した。
あの辻で見た、彼が千代の姿を描いた画だった。
「あれを哀れむ気持ちがある限りでいいから、この画はおまえが持っておいてやりな。嫌になったら、棄てればいいよ。女もそれを望んでる」
「石燕先生……」
悪い夢からまだ醒めきらない気持ちのままで、春右衛門はおずおず千代を描いた画を受け取った。
陽光の中を、石燕が眠たそうに欠伸をしながら去っていく。
彼の背が門を出た途端、春右衛門よりもひと足早くこの悪夢から目醒めたのか……、ふいにあばら屋敷がなかば崩れ落ちた。
「……!」
ぎょっとして、春右衛門は思わず庭の方へと飛び退った。
春右衛門が目を見開いているその前で、ドサドサと大仰な音が響く。
天井の梁が崩れたのだ。
同時に、首を括られた男女の干からびた死体が落ちてくる。
「こ、これは……」
春右衛門は、呆然として息を呑んだ。
新たに現れた襦袢姿の遺骸の首は腐れて、どちらも細く長く伸びていた――あの哀しい抜け首父娘のように。
「……」
いつの間にか空は暁に輝き、世界は光に満ちていた。
やっとのことで平静を取り戻し、春右衛門は、父の後を継いで同心となった次兄の久慈新介の元へと急ぎ走ったのだった。
♢ 〇 ♢
兄の新介が仕える上役の指示によって調査がなされ、あの首が腐れ伸びた遺骸は、本物の日下部父娘のものだとわかった。
娘の着ていた襦袢の懐に、遺書があったのだ。
本物の千代は最初の結婚で夫に裏切られたと知った時に首を括って死に、それを知った父親も後を追ったらしい。
それから――あのあばら屋敷の床下からは、齧られ喰われた男の白骨遺体の残骸が何体も見つかった。
あの飛頭蛮の父娘がこのあばら家へと忍び入り、二人に成り代わって、縁談を受けた新婿や誘惑して招き入れた愛人達を喰らっていたのだ。
やっとのことですべての調査が終わると、春右衛門は本物の千代とその父親と、そして身元もろくに知れない飛頭蛮父娘の犠牲者達の遺骸を引き取って、知古のある小さな寺の墓地へと運んだ。
(『物の怪は、どう足掻いたとて、絶対に人のようには生きられず、人のようには死ねぬ』、か……)
何年も前に亡くなった本物の千代の遺骸は今も残っているというのに、あの夜死んだ物の怪の遺骸は風に吹き散らされて消えた。
(結局、彼女のために、俺は何もできなかったな……)
名も知らぬ哀れな女怪の前で、春右衛門はただ無力だった。
声もなく泣きながら、深く深く、春右衛門は墓穴を掘ったのだった。
♢ 〇 ♢
それから、桜が散って新緑の季節が来た。
川面を眺めても花筏なんかはとっくに消え、今は抜けるように澄んだ青空を写している。
膨張を続ける大江戸の町を歩く春右衛門は、すっかり町で愛される〈春坊〉に戻っていた。
春右衛門としては、もう自分は春坊なんていう呼び名のふさわしい小僧ではないのだが――以前はともかく――まあ、言っても栓なきことと、あまり気に病まなくなった。
石燕はといえば、気味悪がって誰も住む者のいない日下部家のあばら屋敷を買い取って、ゆるゆると繕い直しながら暮らしていた。
力仕事が必要な時は、春右衛門は石燕の画室となったあの軒先の間に勝手に入っていって手伝った。
「――おまえさんも物好きだねえ。あぶく銭にもならんのに、そんな面倒な汚れ仕事を請け負ってさァ」
板べりの床の上に見合わぬやたらと上等な畳を敷いて、石燕が寝転んで画筆を動かしている。
相変わらず身のまわりの品々は逸級品ばかりだが、たいしてありがたがるでもなく、石燕はのんべんだらりと暮らしていた。
「放っておけば石燕先生はこの塵山の一部になってしまいそうで、見過ごせませぬ。掃除くらいは、それがしが手伝い申しましょう。ささやかですが、あの晩の礼です」
「ふーん。まあ、好きにしろ」
ひらひらと手を振って、石燕が図画の世界に入り込む。
こうなっては彼の耳は聞こえなくなるから、春右衛門は本当に好きにした。
家中を掃き清め、雨漏りを補修し、疲れ果てて縁側に腰を下ろすと――。
春右衛門は、ふと懐から、石燕が千代を描いた画を取り出した。
胸でも患ったように物悲しく、彼女と話した時間が蘇る。
あの日彼女が浮かべたのと同じ美しい笑顔が、この一服の画の中に見事に切り取られていた。
春右衛門は、心の中で石燕に感謝した。
彼は――、あの老怪がそそのかしたようなおぞましい姿には、彼女を描かないでいてくれたから。
初恋の人は彼方へ去ってしまった。
それでも、
(この彼女だけ……)
憶えておこうと、春右衛門は深く誓ったのだった。※
最後までお読みいただきありがとうございます!
【石燕先生、モノノケでござる!】第一話はここで完結です。
引き続き第二話も更新開始しますので、お時間ある方はぜひ読んでみてください!
※零れ話
小泉八雲も「ろくろ首」にまつわる話を書いているそうです!
ちょうど朝ドラで放映中なので、青空文庫のURLを記載しておきます。
私も読んでみましたが、面白かったです!
https://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/50327_35773.html




