まさに、化け物 ……このおぞましき姿を見せても、あなたを
激昂した老爺の抜け首が、千代の首から迸る血飛沫を被りながら宙へ浮き、春右衛門へ襲いかかってくる。
迎え討とうとした刹那、千代の血が目の中に入り、春右衛門の視界が霞む。
(殺される!)
鮮血に濡れた赤い視界に、ぐわりと開いた老抜け首の口に並んだ鋭い牙が見える。
春右衛門は、死を覚悟した。
しかし、殺気に満ちた抜け首の牙が、春右衛門の咽頭に届く直前だった。
床に落ちて死んだはずの千代の首がすうっと浮き上がり、醜い牙の並んだ口をカッと大きく開いた。
千代は、そのまま父であるはずの抜け首に喰らいついた。
「ぐっ、は、千代……! この裏切り者めぇっ……」
抜け首は、唾を飛ばして我が娘を罵った。
老父の皺枯れた頤にしっかりと喰らいついた千代の形相は禍々しく凶暴で、まさに――化け物そのものだった。
「……」
ギョロリと千代の瞳が動き、春右衛門を見る。
恐ろしいほどに真っ黒な瞳。
そのまま凝固したように、ゆっくりとその瞳から光が消えていく。
父のオトガイを強く嚙み締めたまま、千代は何も言わずに息絶えた。
やがて――……、老抜け首の怨嗟の声も絶え絶えとなり、虚空へ消え入った。
♢ 〇 ♢
静寂が世に戻ってもなお、春右衛門は無言のまま、動くこともできずにいた。
だんだんと、あばら家の様相がよく見えるようになっていく。
夜空の星の輝きが遠のき、代わりに白い光があたりに満ちてきたのだ。
長い長い、呪われた夜が去っていく……。
「……」
曙光が一筋差した瞬間だった。
春風に塵が吹き飛ばされるように、物の怪父娘の醜い遺骸が崩れ散る。
光によってちり芥のように消えゆく物の怪父娘の遺骸を見ていられず――、春右衛門は目を伏せた。
居合の姿勢でそのまま腰を抜かして、膝の上で握った拳がぶるぶると震えている。
わずかの時も経ずに、その拳にまで朝陽が伸びてきた。
朝白い光の中で呆けたように座り込んでいる春右衛門の側に、石燕が無言で腰を下ろした。
春右衛門は、ガチガチと歯の噛み合わない口を、何とか開いた。
「……先生のおっしゃる通り、俺はまだまだ小僧のようですね。情けないことに、膝が笑って立つこともできませぬし、涙も洟も止まりませぬ」
「だが、先刻の太刀は、武士の名に恥じぬものだったぜ」
「そうでしょうかね……」
無様に鼻水を啜り上げて、春右衛門はふと呟いた。
「恋い死ねと、する業ならし、むばたまの、夜はすがらに、夢に見えつつ……」
「……んん?」
春右衛門が口の端に上らせた歌を聞き、石燕が顎に手を当てた。
「何だい、その歌は」
「千代殿が、俺に詠んでくれた和歌です。俺には意味がわからず、死ねと言われているのかとも思いましたが……。
石燕先生には、どんな歌かわかりますか?」
春右衛門が訊ねると、納得したように石燕が頷いた。
「ああ、わかるぜ」
どこか感慨に耽るように、彼が春右衛門の顔をしげしげと眺めた。
「ふうん、そうか。その闇夜の恋歌で、あの女怪はおまえに迫ったのか」
「い、意味は」
春右衛門が重ねて訊くと、石燕がふっと笑って教えてくれた。
「恋して、恋して、恋に焦がれて死ねということか。触れ合うことのできない暗闇の夢の中で何度逢っても、本当の貴殿に逢えねば意味がない……。
……と、女怪は言っておるのだ」
「……」
呆気に取られ、春右衛門は稀代の天才画師を見つめた。
曙光がほのかに差す中でふっと笑う彼は、何とも謎めいていて美しい。
世間の女達が彼に焦がれる気持ちが、不本意ながら、男の春右衛門にも少しばかりわかってしまった。
彼の相貌につい見惚れ、春右衛門は頬に熱を集めた。
「……お、俺には、難しい歌です」
石燕から目を離し、春右衛門は両の拳を置いた膝を眺めた。
含意が幾重にも重ねられる和歌の世界は、春右衛門には難解だった。
〈逢う〉というひと言を取っても、意味は無数にある。
「そうだなあ。実に古めかしい歌だ……まるで源氏物語の世界だな。あの爺が言っていた千年の齢というのも、あながちただの大法螺ではなかったのかもしれん」




