初めて恋した人
「かたじけない」
石燕にもう一度頭を下げると、春右衛門は腰を上げて振り返った。
そして、泣き伏している女ろくろ首の元へとそっと歩み寄る。
「い、嫌、来ないで!」
女ろくろ首が、必死に不気味な醜い首を伸ばした顔を伏せようともがいていた。
その黒い瞳が、初めて彼女を夢うつつに見た時のように、悲しそうに揺れている。
「春右衛門様……。お願い。あたしの本当の姿を見ないで……。こんな、こんな醜い姿を……」
春右衛門は、腰を落とし、さめざめと泣く女の頬にそっと触れた。
「!」
千代が、息を呑む。
彼女の白い肌はやはり、死人のように冷たく柔い。
しかし……、彼女の心を溶かした涙の雫は、血が通ったように温かだった。
春右衛門は微笑んで優しく言った。
「千代殿。そうお泣きにならないでくだされ。あなたが泣いているのを見ると、俺はとてもつらいのです」
「……!」
はっとしたように、千代が涙に濡れた瞳で春右衛門を見上げる。
春右衛門は、彼女がさっき呟いた歌を思い返した。
――恋い死ねと、する業ならし、むばたまの、夜はすがらに、夢に見えつつ
やはり、彼女は春右衛門に死ねと言っていたのだろう。
初めて恋した女の望みがそれとは切なくてならなかったが……、致し方ない。
自分は、ずっと彼女に恋していた。
最初から、春右衛門は決めていたのだ。
春右衛門は言った。
「……俺を殺したければ、どうぞ殺しなされ。恨みはしませぬよ。先刻申し上げたでしょう。あなたのためなら、俺はこの命を捨ててもいい。武士に二言はありませぬから」
春右衛門は、そっと首の抜けた千代の身体に触れ、その手を取って自分の首に這わせた。
「そ、それは……! 春右衛門様……!」
千代が息を呑んだ音が聞こえる。
春右衛門は、静かに続けた。
「……申し訳ないが、俺はあなたと結婚はできませぬ。
ですが、約束を反故にした代わりに、あなたが俺を連れていきたいとおっしゃるところへならどこへなりとも参ります。さあ、あなたの望みを果たしなさい」
千代の瞳が……、大きく見開かれていく。
その瞳の中には、春右衛門の顔が映っていた。
瞼を閉じて、我が首を差し出す。
このまま、彼女に殺されるのだと、春右衛門は思った。
しかし――。
♢ 〇 ♢
春右衛門の言葉を聞いて、千代はいくつも涙の粒を零し、小さな声で呟いた。
「……本当に、莫迦な人……」
「……」
「……もうこんなことは続けられません。
春右衛門様。もし本当に、あたしの望みを叶えてくださるというのなら……。
どうかあなたの手で、あたしを父とともに殺してくださいまし」
「――!」
驚いて、春右衛門は息を呑んだ。
彼女の声に、もう震えはほとんどなかった。
「千代殿……!」
それ以上、何も声が出ない。
春右衛門は、じっと千代の瞳を見つめた。
涙に濡れたその瞳に、嘘はない。
彼女は……、自らの呪われた命を終えたいのだ。
思わず春右衛門が救いを求めるように石燕の顔を見ると、彼は肩をすくめた。
「愛してやるつもりだった女の最期の願いを聞いてやるのもまた、武士たる男の務めなんじゃねえかい」
「……」
「その哀れな化け物、俺なら殺すね」
ふいに月が叢雲に隠れて、石燕がどのような表情をしているか……、春右衛門の目にはわからない。
その石燕が、春右衛門に鞘に納めた刀を手渡す。
春右衛門が千代を見ると、彼女は無言で小さく頷き、静かに目を閉じた。
「……千代殿」
無言の彼女に促され、春右衛門は覚悟を決めた。
太刀の柄を握り締め、低く構えを取る。
(せめて、一瞬で……)
春右衛門は目を瞑ったまま、彼女の長い首を一刀両断した。
「断ッ‼」
それは、飽かずに通った剣術道場での修練が凝縮した、これまで春右衛門が振るった業の中でも最も冴えた居合だった。
が――、千代の長い首が猛烈に血を噴き出した瞬間だった。
「おのれ、この下級武士風情が!」
激昂した老爺の抜け首が、千代の首から迸る血飛沫を被りながら宙へ浮き、春右衛門へ襲いかかってくる。
迎え討とうとした刹那、千代の血が目の中に入り、春右衛門の視界が霞む。
(殺される!)




