化け物の誘惑
「……あなたは、画妖先生でござりまするな」
頭だけの身で平伏して、額を床に擦りつけ、化け物の父が言う。
画師は、冷めた目で化け物の父を見返した。
「ああ、そうだよ」
「画妖先生の御名は、吾ら妖怪どもの間にも轟いております。この爺の千年にも至る命数の尽きようというこの晩にお遭いできたこと、光栄に存じまする」
「物の怪にそう歓ばれても嬉しくねえなぁ」
「ですが、画妖先生もおわかりでしょう。物分かりの悪い人間どもより、吾らの方がよほど、あなたに近く、あなたの才を真から識っておる」
「……」
「吾らはみな、画妖先生の風雅の才に畏敬を抱き、恐れ焦がれておりまする。世俗の蒙昧なる人間どもにはわからぬだろうが、あなたの芸術は岐度常世の果てまで長く長く残り続けるでしょう。まるで――吾ら化け物の呪われた命のように」
何か的を射るところでもあったのだろうか。
若き画師の表情が、かすかに曇る。
目を細め、画妖先生が化け物老爺に問うた。
「……老怪め。何が言いたい?」
「あなたの芸術に残れるならば、ここで死ぬ価値もあろうというもの。この化け物爺は、あなたのために至極の画題を捧げたいのでございまする。
――どうぞ、画妖先生の魔を魅るその眼の前で、最期にあの武士の小僧を喰らわせてくださいませぬか?」
「……‼ なっ、何を……!」
春坊は息を呑んだ。
それを無視し、化け物老爺が心酔に満ちた皺枯れ声で続ける。
「儂があの童の血肉を啜るそのさまは、あなたの稀代の画才を以て、きっとこれまでにない素晴らしい妖怪画に千変万化するでしょう。どうぞお願いいたしまする。画妖先生……」
鳥山石燕が持つ天賦の才を誘惑するようなその持ちかけに――、背筋にぞっと怖気が走る。
「……」
よもや、この若き奇才は、この化け物にそそのかされてしまう気ではあるまいか。
すると、画妖先生は、涼やかな眼を、春坊が背後に庇った女ろくろ首に向けた。
「そこな女飛頭蛮。おまえの望みも父親と同じかい?」
「あ、あうぅ……っ」
ぎょっとしたように身をすくませ、背後の女怪が息を呑むのが、春坊にも気配でわかった。
「ひい、ひぃっ、ひいぃぃ」
女怪が、声にならない声でなお咽び泣く。
怖い怖いと呻く恐怖の声が、啼き声を追い越して春坊の耳にまで聞こえくるようであった。
しばしの間床をにらみ、それから春坊は、画師を見た。
男が、春坊にも同じ問いを投げてくる。
「小僧。手前はどうしたい」
「それがしは――……」
男の眼光が、月光よりも鋭く閃く。
怖気づきそうになるのを必死に堪らえて、春坊は――春右衛門は、一人の男として答えた。
「――それがしは、千代殿と話がしたく存じまする」
画師が、わずかに眉をひそめる。
「話だと?
なぜ、そんなことを望む?
おまえ、其れの正体がわかってねえわけじゃねえんだろう?」
「はい」
「おまえ、死ぬぜ」
「やもしれませぬ」
「おまえがそいつに喰われて死のうが死ぬまいが、俺はそのバケモンを斬る。人喰いと知って野放しにすれば、公方様に申し訳が立たねえからな」
「わかっておりますとも。それが道理というものです。
……ですが、俺も男です。己が命の使い方は、己で決めます」
「わからんな。
やはり正気じゃねえのか? おまえ」
「そうかもしれませぬ。
笑っていただいても構いませぬが、どうぞ俺を彼女の側へ行かせてください。
――石燕先生」
春右衛門は、敬意と畏怖とを以て彼を天才にふさわしい雅号で呼んだ。
両手を床につき、春右衛門が深々と額づくと、……やがて、鳥山石燕は、やれやれとばかりに大仰なため息を吐いた。
「せっかく夜の江戸を奔ってきて危ういとこを救ってやったってのに、骨折り損かよ」
「申し訳ございませぬ」
「……まあいい。勝手にしろ。俺にも武士のそなたの刀を勝手に使った借りがあることだしな」
「かたじけない」
石燕にもう一度頭を下げると、春右衛門は腰を上げて振り返った。
そして、泣き伏している女ろくろ首の元へとそっと歩み寄る。




