月影の中に、男
その緩い手応えに、いつか子供時代に近所の先生に手習いを受けた、器づくりのことを思い出す。水を増やせば掴めずに指を零れ落ちるが、土を増やせば器ができる。あの幼い日にろくろでこねて伸ばした土のような、千代の体躯――。
「ち、千代殿――……!」
まるで夢を見るように、春坊は目を見開いた。
初恋を捧げた女の華奢な白い首筋が、春坊の目の前でするすると伸びていく。
どこまでもどこまでも、するする、するする、するする……と。
「あっ……、あ……、あぁ……!」
春坊は、腰を抜かして後ずさった。
千代の顔が、宙高く浮いている。
なおも、彼女の首は長く伸び続け、今はもう、生糸のように細く繊細になっていた。
千代の長い首が、巨大な大蛇のように春坊の全身に絡みつく。
千代の顔が浮く宙を見上げた春坊の目の端に、格子戸が映る。
あの朽ちかけた格子戸――彼女がいつも顔を覗かせていた窓は、あんなにも高いところにあったのか。
ずるりずるりと首の抜けた千代の身体が這うように迫り、身動きのできない春坊の首に、彼女の白い両手がかかる。
「……千代殿……。あなたは……!」
【ろくろ首】――――…………。
その女怪が、切なく泣きながら呟く。
「――ああ、莫迦な春右衛門様。せめて苦しまないようにいたしますゆえ、どうぞ、このままあたしのために死んでくださいまし」
♢ 〇 ♢
……三々九度の酒に何か薬でも入っていたのか、それとも物の怪の妖力によるものだろうか。
もう、意識が朦朧としていた。
ぼうっとした春坊の瞳を、ろくろ首の零す涙が濡らす。
その涙の泉の外、細く開いた障子戸の奥から、日月のような一対の鋭い眼が覗いていた。
「――千代、もう済んだかい」
血の気が失せ、年老いた猿のような褐色の顔がちらりと見える。
おぞましいその皺だらけの顔に、眼光だけが爛々と燃えていた。
恐ろしい響きを持ったその問いに、ぐったりとした春坊を抱きしめていた女ろくろ首が、ぎょっと身をすくめた。
守るように春坊を抱きすくめたまま、女ろくろ首が障子戸へ答える。
「は……、はい、お父様。今、すぐ」
「急げよ。父に早くその新婿の温かな血を啜らせておくれ」
「わかりました」
ろくろ首は頷き、力なくうなだれている春坊の幼さを残す顔を覗き込んだ。
熱い涙が滲んでいる春坊の瞳を見つめ、ろくろ首は哀れむように浮いた頭を春坊の頬に擦りつけた。
「……だから、遭いに来てはいけないと言ったのに……」
「う、うぅ……」
春坊は、うめき声を上げた。
夢うつつの中で……、春坊は何度も自分を喚ぶ声を聞いた。
あれは、夢ではなかった。
春坊の耳が現実に聞きつけた、千代の声だったのだ。
春坊の内心を察したのか、女ろくろ首が悲しそうに瞼を伏せる。
「本当にごめんなさい。でも、どうしようもないの。人間を喰べなくては、あたしもお父様も生きていかれないから……」
「……」
……もう、想いを寄せた女が自分を喰らおうとしている怪物だったことは、春坊も理解していた。
頭の中までおぞましいろくろ首のかけた呪詛が満ちているのかどうか――抵抗もせず、春坊はただ彼女の望むままに身を預けていた。
「まだか、まだか、千代」
「お父様、今すぐに」
血塗られた父娘の声が響き合う……。
♢ 〇 ♢
その時だった。
軒下をひゅっと音を立てるようにして、月光が差したのは。
「……」
惚けた瞳で見上げると、外界とこの魔の部屋を隔てていた障子戸がぱっと開いていた。
さっきの音は、障子戸が床を滑る音だったのだ。
中天に差しかかった満月が、部屋を煌々と照らしている。
気がつけば、月影の中に――細身の男が立っていた。
「……なるほど。毎夜迷い首と遭うと思ったが、こんなことになっていたのか。
だが、どうやら、一人ではねえようだな。この物の怪には、父がいるらしい」
その声に、春坊ははっと目を見開いた。
月影をじっと見凝らし、確信する。
あれは――いつぞや辻で会った、画妖先生ではないか。




