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石燕先生、モノノケでござる!  作者: 玉水ひひな
第一話 春坊の縁談

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祝言の夜


「――ああ、やっとのことでこの日が来た。今日はいよいよ……」


 千代との、祝言の日だ。




 ♢ 〇 ♢




 その日一日、春坊は落ち着かなかった。

 父に挨拶し、母に頭を下げ、気を鎮めるために刀を振るい、湯屋に行って身体を清め、また父に挨拶をして、『それはもう済んだ』と笑われる。


 そんな風にして時を過ごすうちに、ようやく待ち焦がれていた夜が訪れる。

 やっとのことで、首を長くして待った祝言の夜が来たのだ。


 貧乏武家の婚礼だ。日下家のあばら屋敷に煌々と明るく松明たいまつが照らされた以外は、本当に簡素なものだった。

 

 母のおたまが婚礼で着たお古の白い小袖と被衣かずきを新妻が纏い、挨拶が終わり、盃が交わされ、酒食が饗され――という流れで、儀礼は終わる。


 花嫁姿の千代は、目に眩しいと思うほどに美しかった。

 一方、春坊もこの夜は借り物の裃に刀を二本差しにした正装だったが、まだまだ幼い顔立ちをしているから、似合っているとはお世辞にも言われまいと感じられて、どうにも着心地が悪い。


 あいにく千代の父は病状が思わしくないそうで、奥の間に伏したまま、顔を出すことはなかった。

 最後に春坊が両親に仰々しく挨拶をし、手伝いに来てくれていた同輩達が去り――。

 あばら屋敷の臥所には、とうとう新婚の夫婦だけが残された。


 燭台の蝋に灯る小さな炎が、ちらちらと揺れている。


 臥所に敷かれた寝具は、両親が金策に走って何とか用意してくれたものだ。

 その上に、二人して鯱張って、膝を突き合わせて――。


 春坊は、膝に置いた両の拳を震わせていた。

 しかし、春坊が拙く口を開く前に、千代がふいに小さな声で呟いた。


「……莫迦な人。来ないでと言ったのに、どうしていらっしゃったのです」


「は……?」


 千代の囁きが小さすぎて上手く聞き取れず、春坊は訊き返した。

 すると、彼女は今度ははっきりとした声で言った。



「……恋い死ねと、する業ならし、むばたまの、夜はすがらに、夢に見えつつ……」




「えっ?」


 ぽかんとして千代の顔を見つめ――。

 次の瞬間には、あ、しまったと思った。


 今のは、和歌やまとうたではないか。



(恋い……)



(……死ねと)



 初句の通り、恋の歌と素直に受け取っていいのだろうか?

 だが、続く句はいやに不吉だ。

 動揺していると、千代が間近から春坊の顔を覗き込んできた。



「!」



「……春右衛門様……」



 千代の声が、小さく響く。

 しかし、春坊に、恋の和歌への返歌などができようはずがない。

 馬鹿みたいに全身が粟立って震えていたが、それでも、春坊は意を決して口を開いた。


「ち、千代殿……。どうか、教養のないそれがしをお許しくだされ。あなたのその和歌の意味は、それがしにはてんでわかりませぬ。ですが、あなたを想うこの心は誠です。それがしは、本当は、この縁談が持ち上がる前からずっと、あなたを――」


 しかし、そこで春坊は言葉を止めた。

 白い小袖姿のままの千代が、はらはらと涙を零し始めたのだ。


 愛しい女の涙姿は、夢幻のように美しかった。

 千代の真っ黒な瞳が濡れたように光り、ぽた、ぽた、と、透明な雫を落としていく。

 まるで、黒い宝石が涙に溶けて漂っているようだった。


 ひとまわり以上も年上といえど、女だ。


 初夜が怖いのかなと、ちらりと思う。

 怖いなら、怖くなくなるまで延ばせばいい。

 千代と夫婦になれただけで嬉しかったから、春坊は何の下心もなくそう思った。


「あの……、そうお泣きなさるな。何も案ずることはない。千代殿。それがしは、あなたのためならこの命を捨てることも厭いませぬ」


 ……よかった。

 その声は、いつぞやよりもずっと強い響きを持っていた。

 男らしい、立派な武士そのものだ。


 身体はまだ緊張に強張っていたが、それでも春坊は、新婚の夫らしく、彼女の頬にそっと手を置き、優しく身体を腕に抱いた。



 が、その瞬間――息を呑む。



「……!」



 腕に抱いた千代の身体が、想像していた以上に細いのだ。


 もともと、ほっそりとした身体つきの人ではあった。


 骨ばっているかと思っていた身体は、実際に触れてみれば、骨などないかのように柔く緩い。


 ぽたぽたと零れ落ちてくる涙だけは火のように熱いのに、触れている肌は死人のように冷えている。



 千代の身体が溶けて消えてしまいそうで、留めるようについ力を込めて抱きしめると、骨ばって枯れ枝のように堅いのかと思われた千代の身体は、にゅるにゅると細くうねり、どこまでも際限なく伸び続けた。


 その緩い手応えに、いつか子供時代に近所の先生に手習いを受けた、器づくりのことを思い出す。水を増やせば掴めずに指を零れ落ちるが、土を増やせば器ができる。あの幼い日に()()()でこねて伸ばした土のような、千代の体躯――。



「ち、千代殿――……!」




ここまで読んでいただきありがとうございます!

引き続き読んでいただけたら嬉しいです。

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