また、夢
本当は桜の葉の独特な風味と塩気が苦手だなどということはおくびにも出さず、春坊はまた頭を下げたのだった。
♢ 〇 ♢
二人は、川辺へ降りて肩を並べて座り、向こう岸に咲く一本桜を眺めた。
ちらちらと舞う桜の花びらを目で追い、千代が少し寂しそうに言う。
「……桜は三日見ぬ間に姿が変わると申しますが、いつの間にか、あの川向こうの桜にも葉が目立ってきましたねえ」
「ええ。時が過ぎるのは早いものです」
一日千秋の思いで千代との祝言を待ち、ついにはノタノタとした陰陽の巡りを恨み始めていたことなんかはすっかり忘れて、春坊は頷いた。
もそもそと桜餅を食べていると、千代の頬が綻ぶ。
「ああ、とても美味しいです。春右衛門様」
「本当ですか?」
ほっとして、春坊も微笑んだ。
「千代殿は、桜餅がお好きなのですか? なら、また買ってきます」
今度こそ、長命寺の桜餅を。
春坊が内心でそう誓うと、千代も嬉しそうに頬に笑窪を作る。
「ありがとうございます。春右衛門様は、とてもお優しいのですね」
「い、いえ、そんなことは……」
耳から首まで赤くなって千代と並んでいる春坊に、彼女がふいに訊いた。
「……春右衛門様は、此度の縁談を本当はどうお考えなんです?」
「えっ?」
驚いて春坊が声を裏返らせると、彼女は表情を曇らせた。
「縁談の件は、父が無理に決めたのです。……あたしは、父には逆らえません」
「……」
千代が、悲しげに目を伏せる。
「あたしのような年上の女との縁談なんて、春右衛門様は本音ではお困りなのではないですか? どうぞ、この縁談がお気に召さぬのであれば、今からでも遠慮なく――」
「そんなことをおっしゃってはなりませぬよ、千代殿」
気がつけば、春坊は強く千代を諫めていた。
「女人が、己のことをそう簡単に卑下してはなりません。ご心配召されずとも、それがしの気持ちは端から決まっております」
「ですが、春右衛門様」
「武士に二言はございませぬ」
春坊がきっぱりと言うと、千代が目を見開いた。
その瞳に、涙が滲む。
驚いて、春坊は目を丸くした。
「……泣いておられるのですか」
その涙に――夢で逢った彼女の涙が重なる。
千代が今零した小さな涙の雫は、夢で見たそれとまったく同じだった。
首を振って、彼女は涙を袖に吸わせた。
「すみません。何でもないの。……あたし、とても嬉しいです。春右衛門様」
首を振ってから、千代は意を決したように春坊の手を握り、それから耳元に囁いた。
「……あなた、不思議な夢を視るでしょう?」
「え?」
「近く、きっとまた夢を視ます。その夢を、今度こそはゆめゆめ忘れてはなりませぬよ。心優しい若いお侍さん」
♢ 〇 ♢
それは、もう婚礼を明日に控えた夜のことだった。
千代の予言した通り、春坊は本当にまた、夢を見た。
いつの間にか、夜闇の中に一対の黒い石のような瞳が現れ、春坊を見つめているのだ。
千代の顔だった。
詰るように、夢の千代が囁く。
――莫迦な人。来ないでと言ったのに、どうしていらっしゃるのです……
(は……。怒っておられるのですか。千代殿)
自分があんまり気が利かない男だから。
……しかし、いつもの夢うつつと違う。
まるで岩にでも乗られたように、全身が重い。
千代は、すっと目を伏せて首を振った。
――……違います。でも、もうあたしの言ったことを破ってはなりません
(なぜです……。あなたに逢いに行ってはならぬのですか)
――次遭えば、もう手遅れです。あたしにはどうもできません
いつになく強く、夢の千代が言う。
薄く目を開けて、春坊は、重い手を彼女の頬へ伸ばした。
白い肌に、手が触れる。
いつぞやと同じ、ふよふよと手応えのない柔らかさと、ひんやりとした触感。
引き寄せたわけでもないのに、千代の顔が、ずんずんと春坊に近づく。
あの夜見た夢の最後のように、夢の千代が、急にはっきりとした声で喋った。
「――首、頸、頚、くび。あたしの首に、触れてごらんなさい。すぐに総てわかります」
「……」
愛する女に言われるがままに春坊が手を伸ばすと、しかし、その手が虚空を掻く。
千代は悲しそうに涙を零して、春坊に言った。
「……わかりましたね。
もう、日下部の家には来てはなりません。
……さようなら、優しい春右衛門様」
そう囁くと、夢の中の千代は、すうっと姿を消した。
♢ 〇 ♢
……気がつけば、いつもの通りもう朝で、春坊は、まだ眠気にぼんやりとする頭を振った。
「――ああ、やっとのことでこの日が来た。今日はいよいよ……」
千代との、祝言の日だ。
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年内には第一話完結→二話構成の第二話更新スタートしたいと思っておりますので、ぜひ続きも読んでみてください!




