睡眠役(Ⅰ)
不眠症に苛んでいる男がいた。
会社の職場の女性上司がその原因だった。
男は職場の人間関係に積極性に関わろうとするタイプではなく、職場で何か問題が起きても嵐が過ぎ去るのを待つように、何もせずにただじっとしているような性格であったので、会社では全く評価されずに周囲の社員からも相手にされなくなって孤立していた。
男は自分が周囲から孤立した存在であることを認識してはいたが、自分が孤立する原因は、自分を理解しようとする配慮が欠けている会社や周囲の社員にあると思うようになっていたので、孤立感による心的なストレスを感じることはなかったし、不眠症になるようなこともなかった。
しかし、3か月前に男が所属する部署に配属されてきた新たな上司の登場によって、男の精神の安定はじわじわと搔き乱されていった。
その上司は男よりも5歳年上の30代半ばの独身女性であった。
彼女はこれまで、自分の部下が仕事でどんな過ちを犯しても、決してその部下の評価を下げる言動をすることはなかったので、社員からは部下思いの理想的な上司と思われていた。
会社は彼女の実績や能力を特に高く評価していたわけではなかったが、何か問題が起きた時に自己保身に走ることなく周囲の人間を批判せずに、粛々と問題の収束に努力しようとする彼女の態度を評価して3年前に彼女を管理職に昇格させた。
男の部署に配属された彼女は、常に丁寧な言葉遣いで平等に部下に接し、部下が何か問題を起こした場合でも感情的になって叱責したり、嫌みや小言を言うこともなく、辛抱強く冷静に共に問題を解決しようと努めた。
新たな上司の出現で神経質になっていた部下たちは、すぐにそんな彼女を好意的に受け入れた。
彼女は、周囲から孤立しているその男に対しても常に優しく接していた。
男は彼女を部下思いの素晴らしい上司として尊敬するようになり、同時に一人の女性として彼女に好意を抱くようになった。
常に周囲から不当で不遇な扱いを受け続けてきたと思っている男にとって、彼女は生涯唯一の自分の理解者と思うようになり、初めて恋愛感情を抱いた異性でもあった。
彼女がこの部署に配属されてから数カ月が経った頃、部署内にある噂が流れた。
積極性に欠け、事なかれ主義で、周囲に全く溶け込もうとしない男に常に優しく接する彼女の態度を見て、二人が特別な関係にあるのではないかと勘ぐる女性社員が流した噂だった。
男に対して強烈な嫌悪感をいだいていたその女性社員は、なぜ上司がその男に対して親切な態度を取り続けるのかが全く理解できなかった。
だが、彼女がその噂話に動じることは全くなく、これまでと変わらずに常に分け隔てなく真摯な態度で部下に接していた。
男にしても、ただ彼女と接していることが嬉しかったので、周囲の目は全く気にならなかった。
しかし、男の彼女への恋愛感情は日増しに強く募っていき、経験したことのない強烈な切なさと全身の力が抜けるような倦怠感に苛まれるようになっていた。
男は、これまで経験したことのないこの精神的に不安定な自分に、かすかな恐怖すら感じるようになっていたが、それを唯一の自分の理解者である彼女のせいにすることもできず、悶々とした日々を過ごしているうちに不眠症になってしまった。
不眠症が3ヶ月ほど続いた頃、男は精神科の専門医に相談することにした。
病院に行くと診察室には白衣を着た女医が座っていた。
男がその女医の前の椅子に座ると、女医はゆっくりとした口調で男の不眠症の症状について質問を始めた。
男はあの女性上司に対して抱いている恋愛感情を含め、女医の質問に全て正直に答えた。
質問が終わると女医はゆっくりと言った。
『あなたの症状には睡眠導入剤が最も効果的だと思われますが、実はもう一つ別の投薬療法があります。これはまだ臨床段階なのですが、人体に無害であることは検証されています。
臨床段階の治療ですのでもちろん治療費はいただきません』
男がどんな薬なのかと尋ねると女医が答えた。
『私たちは妄想療法と呼んでいます。就寝時にこの薬を一錠飲んでください。
そして布団に入ってあなたが理想とする、例えば、楽しい気分や優越感に浸れたり、あるいはストレスを思いっきり発散できるようなご自分の姿や場面を想像してください。
つまり、理想の状況設定をするのです。
すると薬の効果によって、その設定された状況で演じるあなたの姿や場面が妄想として現れ始めます。
妄想の中で展開される素晴らしい物語があなたを幸福感と充実感で満たします。
そしてあなたは緊張や不安感やストレスから解放されて眠りに導かれるのです。
睡眠導入剤と違い依存性の心配はありません。
この薬は幸福な妄想をしながら眠りに付くための訓練の手助けをするためのものです。
個人差はありますが、この治療を一月ほど続けると薬なしでも幸せな妄想をしながら眠りにつくことが出来るようになります。
もちろん強制ではありませんので、どちらを選ぶかはあなた次第です』
男はしばらく考えていた。
睡眠導入剤はその依存性リスクについてインターネットで調べて知っていたので躊躇していたが、妄想療法なら治療費を払う必要がないのだし、妄想によって幸福感が得られるならこの精神的に不安定な状態も柔らぐのではないか、もし妄想療法に効果がなかったら改めて睡眠導入剤を検討すればよいだろうと考えた。
男が妄想療法を選ぶと告げると、その女医が言った。
『一つだけ注意してください。妄想療法による訓練段階が終了して薬なしでも妄想によって眠りにつくことができる状態になった人の場合、その妄想が現実になった時にその場で眠りに落ちてしまう場合があり得ます。
妄想が睡眠を誘発するスイッチとしてしっかりと脳に定着しているからです。
眠りに落ちてしまうこと自体に人体を害するような危険性はありませんが、例えば、あなたの理想とする妄想が、あなたが常々憧れている高級車を運転することだとします。
そして、実際にあなたがその高級車を運転することになった場合を想像してみてください。
もうお分かりですよね?
そういった危険性がある妄想に繋がる状況設定をすることは避けてください。
どんな薬でも用法を誤るとリスクを伴うものです。まずは一月分の薬を処方しておきます』
男は家に帰るとその夜から妄想療法を始めた。
寝る前に薬を一錠飲んで布団に入り、理想の場面を想像した。
男は豪華なレストランのテーブルを挟んであの上司と向かい合い、ワインを飲みながらおしゃべりを楽しむ二人を想像した。
何を話してよいか分からなかったが、徐々に膨らんでいく妄想の中で、やがて二人は映画や音楽の話をし始めていた。
会話はどんどん弾んでいき二人の間に笑い声があふれ出すと、男は幸福感に包まれていった。
男は幸せそうにため息を漏らすと眠りに落ちていった。
妄想療法に効果があることを確信した男は、寝る前に薬を飲み様々な場面で上司と楽しい時間を過ごす自分を毎晩妄想した。
不眠症はすっかり解消し、精神的に不安定な自分を感じることもなくなっていた。
相変わらずに上司は自分に優しく接してくれるし、夜は彼女と妄想の中で楽しい時間を過ごしていたので、男はこれまでに味わったことがない充実感と自信のようなものを感じていた。
二人の関係を勘ぐる噂は度々耳に入ってきたが、上司は毅然としていたし男も気にならなかった。
妄想療法を始めて3週間ほど経った頃、男は上司と職場以外で会うことを考えていた。
このところ上司は少し疲れている様に見えていたし、目が赤くやつれている様にも見えたので、常に自分に優しく接してくれる自分の理解者である彼女に、食事でもしながら純粋に労いと感謝の気持ちを伝えたいと思っていた。
男は彼女のプライベートの連絡先を知らなかったので、職場の社内メールでその思いを伝えることにした。
彼女が食事の招待を受けるかどうかは分からなかったが、少なくともメールに書いた文面によって彼女への感謝の気持ちは伝えることができる思っていた。
それから二日が経ち、いつものように男が上司から仕事の指示を受けている時のことだった。
彼女は小声で男からの食事の招待の礼を言い、食事をする日時と場所を男に告げた。
男は彼女がこんなにもあっさりと誘いを受けてくれるとは思っていなかったので少し驚いたが、食事の日時も場所もまだ考えていなかったので、彼女の申し出はありがたいとも思った。
数日後、二人は会社から電車で一時間ほどの場所にあるレストランでテーブルを挟んで座っていた。
平日の夜のせいか、客はまばらで店内には静かな音楽が流れていた。
ウエイターが注文を取りに二人のテーブルに来ると彼女はワインが飲みたいと言い、男も同じワインを注文した。
男にとって始めて異性とプライベートで過ごす時間であったが、妄想で見慣れた場面のせいか緊張することはなかった。
男は職場での自分に対する彼女の親切な対応に感謝の言葉を伝えると、これまで妄想してきた彼女との楽しい場面をイメージして、まず最近見たばかりの映画の話を切り出してみた。
その映画は彼女も見に行きたいと思っている映画であったらしく、会話はその映画の話題で和やかに進んでいった。
ワインで少し酔ったせいもあり、男は彼女との会話を楽しみながら全身の力が抜けたようにリラックスして幸福感に包まれていった。
しばらくして男は突然肩を強く揺すられるの感じた。
気が付くと目の前の彼女は険しい表情で男に向かって何か言っていたが、男には何が起きているのかが分からなかった。
彼女はこれまで聞いたことがない強い口調で男に向って話していた。
『あなた失礼じゃないの? 私は忙しい中何とか都合をつけてあなたに付き合ってあげているのよ! 自分から食事に誘っておいて会話の途中で眠りこけるなんてどういうことなの!?』
男はどうやら自分が彼女との会話中に眠ってしまったらしいことを知った。
酔って眠ってしまうほどワインを飲んだわけでもないし、会話を心から楽しいと思っていたのに何故自分が眠ってしまったのか困惑している男に向かって、彼女はさらに強い口調で男を罵った。
『だいたいあなたみたいな人は前からずっと迷惑だったのよ、私が何度同じことを指図しても仕事は覚えないし、周りに打ち解けようとしないし! あのね、私はずっと会社から優秀だとも何とも思われてこなかったの。だからせめてどんなにフラストレーションが溜まっても絶対に文句を言わずに我慢強く周囲を気遣うことで会社に自分の存在を認めさせようとしてきたの! おかげでやっと管理職につくことができたのよ。だから仕事のできないあなたにも優しく接してきたわ。でもね、あなたとの変な噂が立ったのを知って本当に絶望的な気分になったわ! あなたみたいな男との噂でもし私の評価が下がるようなことになったらと思うと怒りが込みあがてきて、でもそれでもそれを抑えないといけなくて、おかげで夜も眠れずに不眠症になって病院に行ったくらいなのよ!! だいたい食事の誘いを社内メールで送ってくるなんて非常識じゃない!? もし誤って私以外の人のメールアドレスに送っていたらどうなっていたかわかる? それこそ私の人生は終わったも同然なのよ!! こんなにあなたのために苦労して我慢してきた私に対して感謝の気持ちどころか自分から食事に誘っておいて会話の途中で眠りこけるなんてどういう神経してんのよ!!!』
男は俯いてただ黙って彼女の怒りに満ちた言葉を聞きながら、とんでもないことをしてしまったと思っていた。
謝ったところでこの彼女の怒りを鎮めることができないと思うと、何も言うことが出来なくなっていた。
この状況に対してどう対処すべきか必死になって考えたが何も浮かばなかった。
男は放心して頭の中が真っ白になっていくのを感じていると、彼女が大人しくなっていたことに気が付いた。
男が恐る恐る顔を上げ彼女に目を向けると、そこには椅子に座ったまま目を閉じて少し頭を後ろにそらし、両腕をだらりと下に垂らした彼女がいた。
彼女は微かな寝息を立てて眠っているようだった。
男は目の前で眠っている彼女を呆然と眺めていたが、しばらくして自分に妄想療法を勧めたあの女医の言葉をふと思い出した。
『一つだけ注意してください。薬なしでも妄想によって眠りにつくことができる段階に入った人の場合、妄想が現実になった時にその場で眠りに落ちてしまう場合があり得ます』
シリーズ化する予定です。