86 エンリケ叔父と水薬
ベルシエラの質問には答えずに、ヴィセンテはにこにこと妻の瞳を見つめていた。藍色が月光と室内にある小さな発光石で不思議な青みを帯びている。僅かに混じる緑色が月の光で浮き出して見える。ヴィセンはただ言葉なく見入っていた。
(ちょっとエンツォ?聞いてらっしゃる?)
幸せそうに見つめてくる夫の様子は嬉しくも恥ずかしい。だが、今はそれどころではないのだ。
(あ、ごめん。聞いてなかった)
(あのね、お祖父様の代や、それより前はどうか知りたいのよ)
(どうって?)
ヴィセンテは妻に夢中で、話の内容はすっかり忘れていた。今のヴィセンテは、エンリケ叔父を微塵も疑っていないのである。ベルシエラの話も家族に関する雑談ぐらいにしか思っていなかったのだ。自分の家族に興味を持ってくれて、心底嬉しいと感じていた。
一方ベルシエラは、確かな手応えを感じていた。ギラソル魔法公爵家の魔法酔いを引き起こした原因に近づいている、と確信していた。
(セルバンテス本家の直系とその配偶者が魔法酔いを発病した時、元ヒメネスのセルバンテス分家が一緒にいたんじゃないかしら?)
(何故そう思うんだい?)
ベルシエラは反省した。答えを急ぎ過ぎたのだ。今聞いた二例だけで、ルシア・ヒメネスの時代から連綿と続く陰謀だなんて決めつけるのは妄想に近い。
(ごめんなさい。もしかしたら、って思っただけよ)
(謝らなくてもいいけど、お祖父様の代やそれより昔のことは知らないなあ)
(そっか)
その仮説はここで一旦諦めるしかない。ベルシエラは勧められるままに干し果物を食べた。杏のような果物で、真夏に取れるユウヤケコモモという果樹の実だ。肉厚で酸味の強いこのドライフルーツは、シロバナヤワラギ花芽茶の優しい飲み口にぴったりだった。
夜風が森の香りを運んでくる。狼の遠吠えが聞こえた。夜鳴く鳥も空気を切り裂く不気味な声をあげている。
(始まりの夜もこんなだったのかしら)
(きっとそうだね。アラリックは一晩中恐ろしい魔物につけ回されたんだから、翌朝出会ったルナは本当に大恩人だよね)
ベルシエラはゾッとした。アラリックにとってのルナを誰かと重ねているように見えたからだ。
(僕にとってのエンリケ叔父様みたいだよね)
嫌な予感が当たってしまった。ベルシエラは刃のような銀色の月をじっと見る。
(シエリータ、そんな顔しないで。ぼく、それでも生きてるでしょう?大丈夫、シエリータの為にも元気になるから)
(エンツォ!)
ベルシエラは痛ましさに耐えかねて、ヴィセンテの両手を握った。
ベルシエラは言葉を探す。どこかに突破口はないものか考える。エンリケと水薬に寄せる全幅の信頼を崩すことは出来ないものか。
(そういえば)
ベルシエラはひとつ、小さな足掛かりを見つけた。
(魔法酔いの薬は、どこから仕入れているどんな薬なの?)
ヴィセンテは急に聞かれてまごついた。ベルシエラはまた一口、ユウヤケコモモのドライフルーツをかじる。甘酸っぱい果肉は、漠然としていた道筋を次第にはっきりと見せてくれる気がした。
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