76 アラリックは雪原を行く
しばらく2人で月を見る。ヴィセンテの部屋には鎧戸付きの窓がある。廊下の窓よりは幅広い縦長にくり抜かれて、上部は半円形を形作っていた。夜空は晴れて星も出ている。冷たい空気が入ってくるが、ベッドの天蓋に取り付けられた暖房魔法の道具で暖かい。
「エンツォ、暖房の道具、大丈夫なの?魔法だけど」
「弱いやつ、なら、平気、だ」
「そう?よかった」
ヴィセンテはベルシエラの手にそっと自分の手を重ねた。心配してもらって嬉しいのだ。ベルシエラは、ヴィセンテの触れた手の甲がとても暖かく感じた。
(変なの。足元が危ない時、父さんや兄さんや隊長やガヴェンに支えて貰っても、何にも感じないのに)
今はドキドキと心臓がうるさい。
やがて花芽を煎じた薬草茶と干し果物が運ばれて来た。ベッド脇にある円いサイドテーブルに音もなく並べられ、配膳係は一礼して下がる。
「どう、ぞ。シロバナ、ヤワラギの、花芽茶、だよ」
「いただきます」
ほわほわと上がる白い湯気から、優しい香りが漂ってくる。美空がいた世界の菩提樹花芽茶と似ている。
シロバナヤワラギはプフォルツ魔法公爵の領地に自生する花樹である。大木となり、夏には真っ白な花が咲く。花芽を乾燥させた物は、特産品としてエルグランデ王国全域で取引される人気商品だ。頭痛や喉の痛みに効き、リラックス効果も期待できる。
(エンツォにはぴったりのお茶ね)
美空が微笑んでいると、ヴィセンテは嬉しそうに身を寄せた。
「気に、いった?」
「ええ、とっても」
「よかった!」
ヴィセンテも非力故に震える手で陶器の器を持ち上げる。ベルシエラはいつでも支えられるように見守った。
(そうそう、心の会話のことなんだけど)
ヴィセンテは、話してくれる約束を覚えていた。ベルシエラはそれだけで心が温まる。
(始まりの夜と関係があるんだ)
ベルシエラはごくりと花芽茶を飲み込んだ。
(その夜は、今夜みたいな細くて鋭い月が出ていたそうなんだ)
声に出すのが苦しいからなのか、ヴィセンテは心の会話で昔話を始めた。
まだギラソル領どころかエルグランデ王国もなかった遠い遠い昔のことである。ひとりの男が雪原を歩いていた。どちらかと言うと痩せ気味で、背もそれほど高くはない。彼は仲間から逸れてしまい、たったひとりで冬の広野を歩いていたのだ。
男の名前はアラリック。名字も何もない、ただのアラリックだ。彼は捨て子だった。ルーツは全く分からない。不思議な眼をしていたために捨てられたのだろうと言われていた。
その頃は魔物も多く、現在エルグランデ王国があるメガロ大陸は大変な危険地帯であった。人間といえば、命知らずや一攫千金を夢見るならずものどもが、海の向こうから時々渡ってくるばかり。
そんな荒くれ者どもなので、子供に慈悲も何もない。奇妙な瞳を持って生まれた赤ん坊は、容赦なく道端に捨てられた。赤子を亡くしたばかりの女性が奇跡的に拾ってくれて、アラリックは生きながらえた。
魔物と戦う時には棍棒しかなく、アラリックは幸運だけで命を繋いだ。今も魔物の襲撃で仲間と逸れたのだ。それでもかすり傷ひとつなく、とぼとぼ雪を踏んでいた。
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