66 虚弱な当主は長文に挑む
ガヴェンが椅子の前にやって来た。一つに束ねた躑躅色の髪が背中で跳ねる。温かみのある金茶の垂れ目は、病み疲れた薄灰青の瞳に落ちた。ご婦人方が頬を染めて囁き交わす。背筋を伸ばしたベルシエラも美しい女主人だ。人々は無意識に堂々たる初老の紳士エンリケを切り離して除外する。
「ようヴィセンテ、だいぶお疲れじゃないか?」
「なに、まだ、まだ」
「嫁さんの前だからって強がんなよ」
「そうよ、エンツォ。横になったほうがいいわ」
「ほら、ベルシエラだって心配してるじゃないか」
ヴィセンテのやつれた顔がぴくりと引き攣った。
「ベル、シエラ?さんは?ガヴェン、さん、は?」
「なんだよ。小せぇ男だな。俺たち巡視隊とベルシエラとは友達なんだよ」
「んんっ、みんなと、なら、まぁ」
ヴィセンテは口を尖らせてもごもご言った。ベルシエラはクスリと笑う。その様子を見て、ヴィセンテは目尻を下げて顔を赤らめた。
「良かったなぁ、ヴィセンテ。いい嫁さん貰ってよ」
「うん、まぁ」
ヴィセンテは照れて曖昧な表情になる。
そこへ、巡視隊の残りとソフィア王女がやって来た。
「ソフィア、王女様、この度は、遠路、はるばる、このような、侘び住まい、まで、尊い、御身を、お運び、いただき、まして、身に、あまる、光栄、にござい、ます」
ベルシエラはヴィセンテが長文を言い切れるかやきもきしながら見守っていた。無事文末まで辿り着くと、ほっとして思わず巡視隊に顔を向けた。皆同じ思いだったらしく、一斉に全身の緊張が解けてゆくのが見えた。
ソフィア王女は柔らかに微笑んだ。
「おめでとう、ギラソル魔法公爵。ベルシエラを頼みますよ」
「はい、かしこまり、まして、ございます」
「さ、もう休みなさい。後はベルシエラに任せて。あたくしも付いてますから」
「そんな、王女様、勿体ない」
「やあね、いいのよ!ベルシエラは妹分ですもの」
居残っていた婚礼客に衝撃が走る。婚礼の夜から薄々勘づいてはいたが、いざ王女の口から決定的な言葉が出ると皆唖然とした。よもやそこまで仲が良いとは思わなかったのだ。
エンリケ派はベルシエラが王宮からのスパイである、と確信した。ヴィセンテ派は、国の中枢からも信頼ある立派な嫁を得た、と喜んだ。
ヴィセンテも王女から言われては強情を張るわけにはいかない。エンリケもまた、王女が花嫁を名指しで責任者に任命したので、何も言えなくなった。笑顔の中で灰色の眼が冷たく光る。セルバンテス特有のオーロラは、ヴィセンテよりも遥かに薄い。よく見ればある、という程度だ。
「部屋まで送ってやるよ」
「すま、ない、ガヴェン」
「そんなぜぇぜぇいいながら。無理しやがって。全く見てらんねぇぜ」
「無理は、して、ない」
「はーっ!よく言うぜ。この石頭」
ガヴェンが付き添いを申し出て、ヴィセンテが退場してゆく。
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