62 優しい夜風は君の髪
ベルシエラは、ヴィセンテがこんなにも揶揄い好きだとは知らなかった。きっと先代婦人も想像しなかった一面だろう。一周目のヴィセンテは口が悪く、甘さの欠片も無かった。ベルシエラの知識は評価していたが、恋慕の感情とは違う。いわば上司と部下の信頼関係だ。
(ツンデレ上司みたいな感じだったわね)
一周目ベルシエラは用が済むと追い払われたが、それ以外の行動制限はなかったのだ。旅行やドレスの新調は自由に出来た。晩年には、誕生日にお菓子が贈られた。ねぎらいは多少あったのである。
(最も、無給だから介護ボランティアよね)
雇用関係とは言えない。代金は国庫から下賜された膨大な支度金を当てていたのだから。
ベルシエラは、横でにこにこ妻の顔を見つめている夫を改めて眺めた。長いまつ毛の銀色には、朝の光が金の粒となって散りばめられている。青白い瞼の下に開いた瞳では、セルバンテス家特有のオーロラがゆらゆらと恋の魔法に誘っている。
オーロラを纏う薄灰青に囚われて、ベルシエラの周囲から音が消える。ただ心臓の音だけが高く速く聞こえていた。
「チョコレート、おいし?」
ヴィセンテが囁く。何でもない一言が、ベルシエラの耳を熱くする。ベルシエラは蓋付きマグを唇に付ける。熱いジンジャーベリーチョコレートドリンクの湯気に隠れようとして、上目遣いにヴィセンテを見た。
「ククク、それで、隠れた、つもりなの?」
ヴィセンテの瞳でオーロラが大きく揺れた。神秘のカーテンに巻き込まれて、ベルシエラは身動きが取れない。
ヴィセンテの痩せた指がすっと伸びてくる。避ける間もなく指はベルシエラのうねる後れ毛を絡めた。
(優しい夜の風みたい。ベルシエラの髪は、本当に美しいね)
微かに触れた指先が、ベルシエラのこめかみを掠る。音のない睦言が心に響いてきた。ベルシエラは驚いてチョコレートドリンクを置く。
(可愛いな。ねえ、午後はこの髪、解いてみせてよ)
昨夜からヴィセンテは、髪を下ろした姿にご執心のようだ。ベルシエラは小さく頷いた。
(いいわよ。お部屋に伺えばいい?)
(中庭に出ないか?)
(雪が積もっているんじゃない?)
(散歩道の掃除はしているだろうさ)
(そうだとしたって、寒くない?身体に障らないかしら)
ヴィセンテは後れ毛を放して、ベルシエラと手を重ねた。弓矢とナイフを扱い慣れた、節のある指を愛おしそうにそっと包む。
(嬉しい!僕のこと、心配してくれるんだね!)
(そりゃ、病人ですもの)
形の良い銀色の眉が悲しそうに下がった。しゅんと背中を丸める姿を見て、ベルシエラはどうしても慰めなければならないような使命感を覚えた。
(ねえ、シエリータ、それだけ?)
(夫婦でしょ?妻が夫を心配しちゃいけない?)
心の中で伝えながらも、ベルシエラは首まで赤くなる。
(ふう、ふ。うん!そうだよね?夫婦だから。心配して当然だよね!そうだよね!)
ヴィセンテも頬が上気している。隣の席でエンリケ叔父が冷たい笑みを向けていることには、ふたりとも気が付かなかった。
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