60 食卓ナイフの使い方
朝食室が揺れたかと錯覚するほどの歓声がようやく収まった。甥っ子が何者かも見当がついた。だがベルシエラの意識は、別のところに向いてた。
(兄さん、結婚したんだー)
兄の席を見ると、隣にはゲルダがいる。ふたりはベルシエラが名前を賜った時に出会った。甘い雰囲気ではないが、自然な距離感である。ふたりが子供を連れている姿も、容易に想像がついた。
(早とちりは良くないけど、そうだと良いなぁ)
ベルシエラはディエゴと仲の良い兄妹だ。血のつながりは無くとも、本当の家族として育った。ゲルダには森を出る日から世話になっている。気さくで明るく、盗賊にも動じない立派な騎士だ。
ベルシエラの目尻は覚えず下がる。頬は弛んで幸せそうに上気した。
「何か、楽しい、ことで、も?」
突然、耳元で途切れ途切れの声がした。
「ぴゃっ」
ベルシエラは耳を抑えてのけぞった。耳に息が掛かったのである。
「ちょっとエンツォ!そんなに近寄らなくても聞こえましてよ?息が掛かってびっくりしたわ」
「くくっ、ごめん、ごめん」
ベルシエラの叱責に、ヴィセンテは愉しそうに忍び笑いを漏らすのだった。
当主席の甘い雰囲気は、いかにも新婚らしく列席者を和ませた。
「ふふふ、王命と伺いましたから、どんな冷たいお城になるかと不安でしたけど」
「ええ、安心致しましたわ」
「これなら、お世継ぎのご誕生にも期待できますわねえ」
ご婦人方の囁きがさやさやと朝食のテーブルを渡る。過度な期待は、一周目のベルシエラをうんざりさせた。だが今回は違う。世継ぎと聞いても重責は感じない。ヴィセンテの恋心がベルシエラにもじわじわと伝染したようだ。
「まっすぐな黒髪も、ちりちりの銀髪も、どっちも捨てがたい」
ベルシエラの考えが口から漏れた。ヴィセンテはすかさず顔を寄せてくる。食事よりも妻を眺めるのに忙しいようで、何かあればすぐに反応した。
「それ、僕たちの、子供?」
にこにこと嬉しそうに言う口元は、血色が悪くかさかさだ。しかし、唇の形は完璧だった。
(この人、実在の人物なのよねぇ。悲恋ヒーローじゃないのに、いや、悲恋ヒーローなんだけども。創作物でもないのに、本当に麗しいなぁ)
健康を取り戻したら、さぞかし人気が出ることだろう。
(モテるかな。嫌だなあ。心配だなあ)
ベルシエラが浮かない顔になると、ヴィセンテの眉は悲しそうにハの字を作った。
「どうした、の?また、息がかかった?いや?」
「えっ、違います」
ベルシエラは慌てて否定する。頬が桜色に上気して、ベルシエラは誤魔化すようにナイフを取った。刃には青い魔法の炎がゆらめく。それから我武者羅にゆで卵をスライスした。
「ククク、シエリータ、ゆで卵、ずいぶん、薄い、ね?可愛、いい」
ヴィセンテはヒョイとナイフを奪う。病人とは思えない素早さだった。するりとベルシエラの手に指を潜り込ませて、巧みにナイフを奪ったのだ。
「ひゃぁ」
ベルシエラはまた、小さな叫び声を上げた。
その様子をじっと見ていたソフィア王女は徐にナイフを持ち上げて、隣に座る隊長の方へグイッと差し出す。隊長は苦笑いしながらも、ヴィセンテの真似をしてあげるのだった。
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