56 ギラソル魔法公爵ヴィセンテ・アントニオは熱烈な男
黄金の太陽城で働く者どもが、武器をとって何事かと駆けつける。初めて聞いた当主代理の怒号に、城中が色めきたっていた。朝食室の壁際からも、護衛の魔法使いたちがベルシエラを捕らえようと動き出す。この城では、エンリケ叔父の態度が行動の指針なのだ。
「口を閉じろ、賤しい物乞い女めが!」
森番の娘は賎民ではない。森番は父親であって、ベルシエラは王命のない私設の助手だが、物乞いではない。森番は、王の狩場を預かる役職だ。現実の歴史では、中々の野蛮人も多かったようではあるが。ベルシエラを育ててくれた森番一家は、優しく明るい人々だった。
「叔父様、お口が、過ぎまするぞ!」
ヴィセンテが本気の当主モードに切り替わった。
「あ、エンツォ。落ち着いて。お身体に障ります」
ほぼ寝たきりの人間が興奮すると危ない。ベルシエラは慌てて宥めた。だが、ベルシエラはひとつ重大な過ちを犯していた。彼女の言葉では、ヴィセンテを落ち着かせることは永遠に出来ないだろう。
ベルシエラの言葉は逆効果だった。気を鎮めるどころか、感情を余計に昂ぶらせてしまった。
「ああ、僕の素敵なシエリータ!」
ヴィセンテはなぜかこけた頬を上気させ、驚くべき力で大人2人を振り払う。骨と皮ばかりになった身体のどこからそんな力が出たのだろうか。まるで魔法を使って肉体強化をした魔法戦士のようである。
ヴィセンテは身体の自由を勝ち取ると、今まさに自分へと進んでくる新妻を迎えに駆け出した。よろよろしながら、危なっかしい足取りで。
「だめよ!走っては!危ないわエンツォ!」
ベルシエラも思わず走り出す。カステリャ・デル・ソル・ドラドの名ばかり当主は、いつ転んでもおかしくない様子なのだ。目尻をほんのり朱に染めて、輝く笑顔でぐらぐらと妻に駆け寄って来る。
薄灰青の瞳には、居並ぶ来客がついぞ見たことのない生気が宿っていた。冷たく凍りついた病気の目付きは、恋の熱に晒されて真冬だと言うのに溶け出したのである。
「エンツォって、呼んで、くれ、るんだね?」
誰も聞いたことのない、甘く優しい囁きだった。ご婦人方が頬を染める。やつれて目立たなかった美男子振りが、初恋に浮かれて露わになったのだ。ヴィセンテの麗しい顔は、幸せに綻び煌めいていた。
「お願いして、よかった!胸が、熱いの、に軽くて、締め付け、られる、のに長閑で、シエ、リータがエンツォと、呼んでくれ、る度に、大空を、飛び回り、たく、なるよ!」
朝食会場の客たちは、ポカンと口を開けてヴィセンテを見た。誰もが、目の前で今起こった出来事が何なのか、一欠片も理解出来ないのであった。
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