55 エンリケ・ガルシア・セルバンテスの焦り
ベルシエラは、ヴィセンテの直情が気掛かりで顔を曇らせた。
(エンツォは真面目だからなぁ。こう、と決めたら真正面からぶつかって行きそうなのよねぇ)
小説のヴィセンテは、迷いと悔悛のうちに進んでいった。結果、熟慮を身につけた。ベルシエラが生きている今とは違うのだ。ほぼベルシエラに悪さをしていないヴィセンテには、葛藤がない。
小説でも一周目でも、失ってから気がついた最愛の伴侶を、今世では新婚の妻として側に抱え込んでいる。
(迷わずエンリケ叔父を敵認定して突撃するわよねぇ)
しかし、それでは駄目なのだ。エンリケ一派を一掃するためには、確実な証拠を集めて追い詰めなければ。
(まして、今世では黒幕がいるらしいんだもの。そいつにたどり着く為には、これまで通りに暮らさなくちゃあならないわ)
既に騒ぎを起こしてしまった手前、ベルシエラ=美空も人のことは言えないのだが。
亡くなった妻を一途に愛して生涯をその復讐に捧げた男。それが、小説「愛をくれた貴女の為に」の主人公である。この小説は一周目ヴィセンテの伝記だ。先代夫人の視点からではあるが、そこは母親である。本質はよく捉えていた。
彼はひたむきな若者である。病気を治してお家を復興する夢を抱いていた。だから、治療には真面目に取り組んでいた。ヴィセンテは偏見で事実を歪めることなく、まっすぐに現象を見つめる性質だった。
その性格傾向は、愛情に関しても同じである。あれだけエンリケに洗脳されていたヴィセンテが、真実に辿り着いたのもそのためである。ヴィセンテは観察する。不愉快であろうが、不機嫌になろうが、真面目に丁寧に検分するのだ。
だが、冷徹な審判者とは違う。ヴィセンテは一途な男である。好きになったら止まらない。脇目もふらずに愛情を注ぐ。彼の愛は、まっさらな雪の上に突き立てられた魔法の杖と似ている。
地味で飾り彫りひとつない木製の杖。だが単純な造形ゆえによく目立つ。遠くから見ても、雪原に立つそれが魔法の杖であることが分かる。一目で理解できるのだ。シンプルな故に無限の可能性と堅実で素朴な温かみを兼ね備えている。
ベルシエラはヴィセンテに歩み寄る。今はまだ、エンリケとトマスにガッチリと押さえられている夫である。そこへ新参者のスパイ容疑者が顎を反らして大股で近づいてゆく。
「エンツォ」
その呼びかけに朝食会場が凍りつく。エンリケが優しい仮面をかなぐり捨てて叫んだ。
「そこの女!」
ベルシエラは足を止めずに横目で叔父を見た。並いる列席者が息を呑む。
「え?私?そこの女だなんて、酷くない?」
今世のエンリケ叔父は、小説でも一周目でも見せなかった本性を、随分と簡単に現す。よほどベルシエラに対する危機感を募らせているのだろう。
「無礼者!ギラソル魔法公爵様と呼べ!弁えぬか!この賎民めが!」
「いや、賎民ではないですね」
ベルシエラはとりあえず反論しておく。ヴィセンテが心配そうに妻を見ている。病弱な細身からなけなしの腕力をふり絞り、エンリケとトムを振り払おうとしていた。
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続きます




