38 ベルシエラが倒れた急斜面
ベルシエラは走って行く。巡視隊の背中はまだ見えない。道は婚礼客のために雪かきされている。昨日は降らなかったので、綺麗に雪がどけられたままだ。早朝の凍った地面に、霜柱を踏んだ足跡が残る。巡視隊の靴跡であろう。
自身もボリボリと霜柱を踏み折って岩の間を走りながら、ベルシエラ=美空は夜見た夢を思い返す。
(あんな場面、小説にあったかなぁ?小説のベルシエラ、あんなに強気だったっけ?)
口数少なく献身的に介護して、罵倒されたり振り払われたりする日々に疲れた小説のベルシエラ。夢のベルシエラみたいな態度だったら、壊れることもなかったのでは?
(それとも、あんなでもヴィセンテの眼からは、ひたすら良い人ぶるスパイに見えたのかしら)
夢のヴィセンテも酷い態度だったが、小説よりはマシな気がした。何より会話が成り立っていたのだ。五月蝿がりながらも、ベルシエラの人格を認める素振りは感じられた。
(夢ではベルシエラだって、ヴィセンテの為に発明までしてた。小説のベルシエラは、そこまでしてなかったような?)
「愛をくれた貴女のために」は大長編小説だったので、細かいエピソードの数々はぼんやりとしか記憶にない。夢に見るほど印象深いシーンなら、覚えていると思うのだが。
岩だらけの道を抜けて、いよいよ森の中へと入る。曲がりくねった山路を駆け下る。馬車道を逸れて、つづら折りの坂に差し掛かる。ここらには雪が積もっている。巡視隊のランニングは馬車道を選んだようだ。ベルシエラは折り返して、崖下に進んだ。
そこでベルシエラは既視感に襲われた。
(ここ……!)
夢で貴婦人の幽霊を見た場所だ。夢の中で、どこか見覚えがあると感じた場所だ。崖下の路などどんな山にもありそうである。しかし、崖の上よりもっと先、山の上に見えたのは、確かにセルバンテスの古城、黄金の太陽城であったのだ。
(間違いないわ。ここで、ベルシエラは、いえ、私は)
崖下の路は、右肩が急斜面になっている。斜面には木々が生い茂り、雪も深く積もっていた。夢のベルシエラは茂みの中で倒れていた。
(ああ、ここで)
凍てつく冬の夜明け、ベルシエラはその時間にしか咲かない花の花粉を採りに来たのだ。その花が開く樹は、急斜面の中ほどにある。
(足を滑らせたんじゃないわ)
その後、珍しく体調が良かったヴィセンテは、偶然ここまで散歩に来た。それは小説で知っている。
(もし、あの時エンツォが来なければ、遺体は魔法で焼かれて埋められていたかもしれない)
あの時、木陰に隠れた男がいた。その時落としたブローチをヴィセンテが見つけだすのだ。ブローチにはダイイングメッセージが遺されていた。死に際に残した最後の魔法が動かぬ証拠となり、エンリケを牢に繋ぐ切り札となる。
(いきなり杖で殴られたのよ。硬化魔法がかけられた杖で後ろから。そうよ、夢でも小説でもないわ。私、ここでお姑様の幽霊にお会いしたのよ!)
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続きます