32 エンツォとシエリータ
トムに無視されながら、ヴィセンテの部屋に着いた。階下からは、笑い声や音楽が微かに聞こえてくる。エンリケ叔父が主人顔で来客をもてなしているのだろう。ベルシエラは森番や巡視隊の面々が気になった。排斥されてはいないだろうか?食べ物や飲み物は貰えているだろうか?
扉が開いてベルシエラも入ろうとした。トムが当然止める。また無言だ。傍目には、ベルシエラが一方的に手を握っている格好だ。トムは遠慮なくベルシエラの手を振り払う。ヴィセンテには、もう抵抗する力がない。
(あっ、ベルシエラ様。お赦しを)
(いいのよ。仕方ないわ。それと、様なんて柄じゃございませんわ)
2人の間で、扉が無情にバタンと閉まる。だが、心の声は手が離れても届いている。
(それなら、シエリータでどうだろう?)
ベルシエラは戸惑った。そういう意味で様を辞退したわけではないのに、と。
(えっ、いきなり愛称)
(僕のことは、エンツォって呼んで?うんと昔に家族が呼んでくれたんだ)
ベルシエラは恐縮してしまう。
(今はもう、誰もそう呼んではくれないから。シエリータが呼んでくれたら、また家族が出来たって実感出来ると思うんだ)
ベルシエラは泣き笑いで眉が寄って下がる。
(そんな。ずるいわ。そんなこと仰ったら断れないじゃないの)
(呼んでみて?シエリータ)
ベルシエラは閉ざされた扉の前でもじもじと躊躇う。顔が熱い。藍色に染めたレースの手袋を嵌めた手を、上気した頬に当てる。ひんやりと気持ちが良い。
(え、エン、ツォ?)
(!)
言葉にならない喜びが流れ込んで来た。それを受け止めたベルシエラは、ギュッと胸の辺りを抑えた。
(こんなの、心臓が持たないわ!)
(嬉しいこと言ってくれるね!)
ベルシエラの心臓は今にも破れそうな勢いで脈打つ。
(愛称を呼んだだけでこんなことになるなんて。世の中のご夫婦は、一体どうやって生き延びておられるのかしら)
(あはは、本当だね)
「あら、まだヴェールもお取りにならないで」
突然声をかけられて、ベルシエラは息が止まるかと思った。黙って振り向くと、ややふっくらとした中年の女性がこちらを見ていた。灰色のワンピースを着た、陰気な感じの女性だった。
「お控えの間はこちらです」
女性に促されて、ベルシエラは扉の前から立ち去った。
(また明日。お休みなさい…………エンツォ)
(!お休み、シエリータ。明日ね)
顔の火照りも胸の鼓動も、ちっとも治らない。灰色の女性は淡々と前をゆく。階段を降り、一階の廊下を進む。壁には発光石を載せる台が並んでいた。魔法酔い防止の為、灯りの数は極端に少ない。所々に小さなくり抜き窓があった。
月明かりを取り込む小窓から、ベルシエラは見慣れぬ星空を見上げる。それは慣れ親しんだ現実の夜空とも、森番小屋や隊長の家から見えた空とも違った。
(ここで生きていくのね。少なくとも、目覚めるまでは)
廊下に吹き込む冬の夜風は、ベルシエラの気持ちを引き締めるのだった。
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