30 太陽のもとに恥じることなく
ヴィセンテは吐き気を抑えながら、なんとか短い挨拶を終えた。それすら叔父任せで式場を後にしていたのだ。列席者たちは、まさかここで真の当主から挨拶を受けるとは思いもしなかった。
幼い頃に発病してから、ずっと叔父を頼ってきた。穏やかな言葉や柔和な表情で言われるがまま、なされるがまま、従ってきたヴィセンテである。
「まあ、ヴィセンテ様、ご立派になられて」
「まさか、ご本人からご挨拶を頂く日が来ようとは」
善良な親戚が涙ぐむ。エンリケ叔父が柔和な笑顔で、喜ぶ親戚の顔を一人一人眺める。不穏分子を確認しているのだ。ベルシエラは、この人達を守ろうと決意した。
ヴィセンテは今、血の通わない飾りのように暗記だけしていた家訓を、初めて本当に耳にした。今日初めて顔を合わせ、今日から家族の一員となった若い女性が聞かせたのだ。家長であるヴィセンテからは、家族の一員として認められなかったその人が。
ヴィセンテは、前屈みで手摺に掴まっていた。落ちてくる銀色の髪を鬱陶しそうに払う。宝石のせいで重たいマントで相変わらずぐらぐらしながら、少し下の段で立ち止まっているベルシエラを見つめた。その眼は澄んでいた。
「貴女を、見倣わ、なければなり、ませんね、わが、勇敢なる妻、よ。ようこそ、カスティリャ、デル、ソル、ドラード、へ」
ヴィセンテは、新参者が家訓を口にしても傲慢だとは思わなかったのだ。むしろ、不当な扱いを受けた花嫁が、泣くことも騒ぐこともなく、不甲斐ない当主にセルバンテスの魂を思い出させたことに感謝したのである。
「不束者ではございますれど、今日からよろしくお願い致します」
ベルシエラは、改めて用意してきた挨拶をする。階段の途中なので腰や膝を落とすことは出来ない。だが、未来に希望を見出した人の顔を夫に向けた。
「貴女と、ならば」
いいかけて夫は脂汗を滲ませた。魔法道具がきつすぎたのだろう。従者が慌てて抱き抱え、階上へと連れてゆく。
「こんなご無理をさせて!今すぐ部屋へ下りなさい!」
階下から駆け上ってきたエンリケが怒りを露わに指図した。
「まあ!あの穏やかなエンリケ様が」
「あのエンリケ様を怒らせるなんて」
結婚式の来賓は眉を顰めてベルシエラを咎めたてる。すると、階上から当主の声が降ってきた。
「妻に、敬意、を」
倒れそうになりつつも、言いなりをやめたヴィセンテはベルシエラを守ってくれた。ベルシエラの胸は高鳴った。
(そうよ!ヴィセンテ・アントニオ・セルバンテスは、そういう男よ)
美空が寝不足になりながら読み切ったのは、文章や構成の巧みさだけによるものではない。美空はヴィセンテの強さが好きだったのだ。自分に向き合う勇気、守るべき者のために行動する勇気、思い込みから抜け出す勇気。
太陽の下に恥じることなく。
本来の詩は古語である。しかし原文通りに「恥づる」と発音してしまうと、一節だけでも魔法が発動してしまうのだ。その配慮も、夫は汲み取ってくれた。
ベルシエラ=美空は、ヴィセンテに抱きつきたい衝動を必死に抑えた。気持ちを落ち着けているうちに、ふとひとつの疑問が浮かぶ。
(でもなんで、太陽と共にあるセルバンテス家が、婚姻の儀式を真冬の真夜中に行うのかしら?)
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続きます




