25 花嫁のヴェールは初陣の面頬
美空にとってヴィセンテは、寝る間も惜しんで読んだ小説の主人公だ。時に応援し、時に感情移入し、またある時には母親気分で叱責もした。彼を襲う運命の荒波に一喜一憂したものだ。
美空がこの覚めない夢に入ってから、数年の月日が過ぎている。だが、寝入る前に読み切った大好きな小説は鮮やかに美空の胸で息づいている。
(ふぁぁ!生きてるよ!動いてるよー!ヴィセンテ・ミオ・ボニートォ!)
隣の美青年が形の良い眉をチラリと寄せた。元から白い顔色が、ますます青褪めてゆく。
(え、なに?にやけてた?ポーカーフェイスしてる筈なんだけど)
実際に息をして歩いている姿を見るまでは、美空の心は冷静だった。いくら姿を思い浮かべても、美空にとって彼は架空の人物である。
だが、今は違う。夢の中とはいえ彼はここにいる。いかにも体温は低そうだが、温かな血の通った人間である。髪の毛一本一本が風に揺れて複雑に動く。形の良い耳が、剥き出しで夜の風に晒されている。
(くぅー。春夏秋冬、頑張ったご褒美が来たわ!)
美空は成人した現代人なので敬語は使える。しかし、この世界の貴族に要求される立ち居振る舞いは知らなかった。それで、主人が留守の隊長邸で教育を受けることになったのだ。
「この方に全て教わるといい」
隊長が紹介したのは、たおやかな栗毛の乙女だった。
「ソフィアよ」
王女と同じ名前である。
「王女様だ」
「え」
本人だった。
(これが、あの、狩の大会優勝者)
およそ騎士めいたところのない、優雅なご令嬢である。栗毛に映える淡い黄色のドレスは、落ち着いた顔立ちに若やぎを加えていた。
「魔法こそ使えないが、およそ貴婦人の教養という教養を身につけた完璧な王女様だよ」
王女は菫色の瞳を嬉しそうに伏せる。
「まあ、褒めすぎよ、子犬ちゃんったら」
「王女様、それやめてください!」
「うふふ、ごめんなさいね?」
ベルシエラは疎外感を感じた。
(なんかイチャイチャはじめた)
王女も隊長もすぐに気がついて、ベルシエラの方へと向き直る。
「さて、何から始めましょうか?」
隊長邸でソフィア王女と過ごす間、巡視隊から時折セルバンテス家に関わる情報が来た。各地に残る魔法使いの記録も知らされた。準備万端とまではいかないが、かなりの知識で武装できた。
国家の一大事とも言えるこの度の婚姻だ。ソフィア王女も参列する。控室を訪ねてくれた時、最後のアドバイスをくれた。
「ベルシエラ、気をしっかりね?婚家は戦場、花嫁のヴェールは初陣の面頬でしてよ」
(はは。流石武人王女)
面頬は日本独自の顔から首を覆うお面のような防具である。顔半分だけを保護する物もある。西洋兜にはない。もちろん、ベルシエラは些細な点を気にしない。
(けど、これからのことを思うと、確かにその通りね)
美空=ベルシエラは、立会人席にいるエンリケ叔父をヴェール越しに盗み見る。
(たぬきめが。優しそうな顔しちゃって。騙されないんだからね!)
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続きます