240 絵物語の題材
夫婦は城の裏手に回る。夏が近づき陽も高くなっていた。太陽の光は伸び始めた夏草を白っぽく輝かせている。剥き出しの土に生えた壁際の雑草は、小さな虫たちの格好の遊び場だった。
テントウムシや小さなバッタ、そしてカマキリに似た虫たちが幼い身体に透き通るような黄緑色を飾っている。この国のテントウムシは黄緑色に赤い斑点が並んでいるようだ。
ひらひらと優雅に舞う蝶たちは、高く低くお気に入りの花々の蜜を味わっていた。色も大きさも様々で、美しく行き交う様子はさながらダンスのステージパフォーマンスのようだ。
城裏の通路を歩きながら、ベルシエラは黄金の太陽城カステリャ・デル・ソル・ドラドの自然を楽しんだ。一周目には無言を貫いていた洗濯女達が、角の向こうで歌っている。元気にいななく馬達や、調理場から漏れ聞こえる指図の声、武器や防具の手入れをする音、そうした全てが自然の音と混ざり合って輝いていた。
初夏の賑わいに身を浸しているうちに、ベルシエラはひとつの見世物を思いつく。
「そうねえ。花火とは別に、ふたりの炎で動く絵物語をするのはどうかしら?」
「面白そうだけど、難しそうだよ?」
エルグランデ王国で書物は高級品である。首都では粗悪な紙質の教訓物語が今年の春祭りで売られたと話題になった。従来の重厚な造りの書物と区別して、ソフィア王女たちは祭礼本と呼んでいるそうだ。頁数の少ない挿絵付きの民衆本の誕生である。
「絵物語かぁ」
ヴィセンテは渋い顔をした。旧ヒメネス領の陰謀はエルグランデ王国民に恐怖を齎した大事件である。この事件を題材とした新発明の祭礼本は、首都の祭りで大流行したという。
ソフィア王女から送られてきたその本には、文字がほとんどなく絵だけでも物語を追える構造になっていた。絵物語と聞いて、ヴィセンテはすぐにこれを連想したのだ。
メガロ大陸の識字率は極めて低いが、富裕な観光客が先を争って祭礼本を買い求めて行った。故郷に持ち帰り、読み聞かせられ物語は広まってゆくのだろう。
「搾油祭でも魔物の大増殖を題材にした歌やお芝居は上演されるでしょうね」
「あんまり思い出したくないなあ」
ヴィセンテにとっては苦い思い出なのである。ただでさえ長年にわたる陰謀というのは自領の恥だ。加えてヴィセンテにとっては、信頼していた親戚に騙されていたことが露見した事件だ。
「私たちは、もっと夢のあるお話を見せたらいいわ」
ベルシエラはにこりと笑いかける。ヴィセンテは胸を高鳴らせて、繋いだ手の指に力を入れた。
お読みくださりありがとうございます
続きます
閑話
民衆本
15世紀にグーテンベルクの印刷機が発明され活版印刷が普及すると、書物は廉価になっていった
識字率は極めて低く、ページ数が少なくほぼ絵だけの民衆本は新しい娯楽として歓迎された
粗悪な紙質、簡易製本、中には2ページだけの物もあった
識字率が低い理由には複数あるが、民衆が聖書の解釈を間違えて地獄に堕ちるのを防ぐ為、というのが表向きの理由であった
主に祭りで売られたので、祭礼本とも呼ばれている
有名なものにファウストゥス博士の物語がある
イタリアの祭礼喜劇ドン・ジョバンニも同じ奇譚がルーツである
彼の名前はドクター・ヨハンネス・ファウストゥス
ジョバンニはヨハネのイタリア読みである
ゲーテ、トーマス・マン、モーツァルトなどの名作にも繋がりドイツ語圏の人々に長く愛される題材となった
地獄からも放り出された稀代のジゴロ、宗教的逸脱者ドクターファウストゥスの一代記は民衆に大人気だった
祭礼本は、説教本の皮を被った大衆的な娯楽本がほとんどである
教会や政府が取り締まっても、風刺的な滑稽本は消える事なく、やがて革命へと繋がる土台ともなったと言われている
行商人が路上販売していたため、根絶やしが難しく波及力は抜群であった
16世紀に現れた路上販売の民衆本だが、内容の影響力は別として形としては、ペーパーバックへと進化していった




