196 秘伝継承
それはなんとも幻想的な光景であった。
ヴィセンテの持つ開祖の杖に少年の幽霊が手を触れた時、洞窟の中には白銀の光が渦となって広がった。少年は目を瞑って一生懸命に記憶を辿る。400年前に見た浄化の魔法を伝えて行く。
親兄弟や友達に教わったこと、自分でも練習した幼い頃の経験を思い出す限りヴィセンテに告げる。言葉ではなく、魔法の流れに乗せて月の民の血に直接訴えかけてゆく。
やがて渦は小さくなって、一本の細い銀の糸のようになった。始祖の杖からヴィセンテの指先へと糸はスルスル入ってゆく。ヴィセンテの銀髪はそよそよと靡き、薄く月光の膜が張ったように見えた。
やがて光が収まると、ベルシエラはそっと夫に手を伸ばした。
「エンツォ、大丈夫?」
ヴィセンテは銀のまつ毛に飾られたオーロラの瞳を妻に向ける。微笑みは弱々しいが、瞳の底には確信が宿っていた。
「大丈夫だよ。杖の継承式より掴みどころはなかったけど、量は少なかったからね」
杖神様が溜め込んだ一族の知識は膨大だった。古代の秘術は複雑だった。引き継ぐ時にかかる精神的な負担も想像を絶するものだった。継承するための時間も際限がないように思われたのだ。
「掴みどころがないって、浄化は出来そう?」
「出来るよ。魔法が不得意な子供の曖昧で順不同な記憶からイメージを受け継いだから、捉えにくかっただけなんだ」
ベルシエラがハッとして少年を見ると、案の定少年幽霊は肩を落としていた。
「気にしなくていいのよ」
ベルシエラは慌てて慰める。ヴィセンテに幽霊は見えないが、傷つけたらしいと感じた。
「ごめん、なんて言ったらいいのかな。秘術の継承はもともと難しいことなんだよ。だから、充分うまく出来たと思うんだ。君のおかげでたくさんの人が助かるよ。本当にありがとう」
普通の人は継承儀式を経験することがない。だから、魔法が不得手な少年の幽霊が成功させたことは賞賛すべきことなのだ。
ヴィセンテは、魔法の話を杖神様やベルシエラとしかしていない。それもごく最近の話だ。感覚の違いから、相手がどんな気持ちで自分の言葉を受け取るのか予想できていなかったのだ。
「僕、役に立てましたか?」
「ええ、とっても。あなたのおかげで、失われた月の民の秘術が蘇ったのよ。凄いことだわ」
少年の幽霊は、今度ははにかんで俯いた。
「エンツォ、私たちの感謝は伝わったみたいよ?」
ベルシエラは気まずそうな夫に囁きかける。
「そう?それなら良かった」
ヴィセンテは当主としての態度を取れていたかも不安だった。大昔の領民、しかも思春期入り口の少年の幽霊に接する機会などそうはない。
「エンツォもあんまり気にしないで」
「うん」
ベルシエラは夫が杖を持つ手にそっと自分の手を重ねた。
ヴィセンテたちは知らなかったのだが、他の四魔法公爵家ですらこんな無茶苦茶な継承方法はとっていない。セルバンテスの当主は、古代の秘術を魂に直接ダウンロードするのである。しかもイメージだけで。
月の民の不得意とは、他の魔法使いにしてみれば度肝を抜かれる水準だった。フランツだったら怒り出すだろう。
「バカも休み休み言え。こいつのどこが得意じゃないって?嫌味か?」
などと言いそうだ。月の民とは、普通の魔法使いならば脳の神経が焼き切れてしまうほどの高難度魔法を、平気でこなす人々なのである。
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続きます
閑話
公爵
公爵という身分は、必ずしも王の子供に与えられるものではありません
例えば、ヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンとその従姉妹で5番目の妻キャサリン・ハワードは、公爵の姪でした。
この一族は貴族ではなく豪農から始まって、数代かけて何回か功を認められ、徐々に出世したのです。
16-17世紀のイングランドで、公爵位は目まぐるしく変化しました。爵位保持者の記録によれば、2人になったり5人になったりしていたようです。
取り潰されたり新設されたり復活したり。様々な理由と血筋の人々が、公爵として活動しました。
恋愛ナーロッパやROPANで、公爵家を継ぐから王妃になれないとか王配になれないとか出てきます。
現実のヨーロッパ貴族は、ホテル王や不動産王のようなイメージに近いです。力ある貴族は領地を多く持っていました。中には海を越えた飛地を持つ人もいました。
公爵が領地に住んで領地の仕事に当主自らがかかりきりというケースはあまり考えられません。病弱とかで世継ぎのいない一代公爵なら別ですが。
まして王族ともなれば、多くの時代と地域で1人につき幾つもの爵位と領地がありました。夫婦がひとつの建物に常住していることも珍しかったらしいです。




